密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

脅迫テロ成功を支えた権力側の人々

昨日はあいちトリエンナーレとホイットニービエンナーレの展示企画をめぐる騒動を対比し、アーチストとそのソサエティーに視点を置いて、あいちトリエンナーレに加えられたテロについて書いた。


ここで明白になった両国のメンタリティー差、日本とアメリカの根本的な違いは、他民族他宗教多文化国家が抱える様々な軋轢の中で、表現の自由・人権問題・異文化異人種問題に対する意識が市民レベルで定着し、また人々が戦って誇れるもの(自由・平等)を、勝ち取った歴史を持ち(また過ちを直視し、常に考え続ける姿勢を持ち)、その歴史を学び、自分自身のこととして考え続ける社会であるアメリカと、単一民族国家(今は状況は変化してきているが、精神面・価値観ではさして変わっていない)輸入された民主主義を受け入れ、享受し、しかし議論を好まず、和をもって尊しと教えられ、空気を読む、不当な圧力に抵抗するより、嵐が過ぎ去るのを身を低くして待つ日本社会の違いである。


テロの真髄は、人々の恐怖心を煽り、自らの主張要求を受け入れさせる事。
ただ無差別人を殺したい犯罪とは大きく異なる。そこに要求が存在して初めてテロと定義される。そういう意味で日本ほどテロを成功しやすい国はないということが今回明らかになった。


安倍首相がわざわざテロ紛争の起こっている地域で、しかも日本人が人質となっているにもかかわらず、勇ましくテロに屈しないと拳を振り上げ、対テロ支援金までぶち上げたが、この人はテロとは何か?をわかっていないばかりか、テロがあると国民を脅して、
テロ対策という名目の恣意的取り締り法を強行採決させた。これこそまさに政権によるテロ・いい加減んで巧妙な恐怖支配政治である。


そして、あいちトリエンナーレに対する、実際のテロ行為が起こり、テロリストはまんまと要求を通し、そのままお咎めなしに野放しになっている。これはどういうことか? 
実は、”いつものメンバー”がやりすぎてしまったため、その身元特定を警察にされると困るので、警察にも忖度命令出ている? 


メディアはもう保身のために身を低くしている場合ではない。この問題を追求し続け、報じ続けなければ、明日は我が身だ。


それから、断腸の思いの津田大介氏、かつての投票棄権の呼びかけが、トンデモ政治家を当選させ、安倍政権をのさばらせ、彼らによる嫌韓煽りが異常な社会のマスヒステリー化し、こういう事態を作るということに思い至らなかったのだろうか? 挑戦的挑発的奇策で社会に物申す方なのだろうが、そういうことが通じる世の中ではなくなってきていると、危機感を新たにしてほしいとお願いしたい。



最悪の事態だ。津田大介が芸術監督を務める「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕からわずか3日で中止に追い込まれてしまったのだ。
 あいちトリエンナーレ実行委員会会長である大村秀章・愛知県知事の会見によれば、テロ予告や脅迫電話もあり「撤去をしなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というファックスも送信されてきた。安全上の問題を理由に中止の判断をしたという。

前の記事にも書いたが、手荷物検査が不可能と思うのはそう思うからで、テロの起きる可能性のある国では、多くの人の集まる会場では、実際に行われていることだ。なぜできないと思ってしまったのか?サイド角がエクスキューズだったのではないのか?今後、テロ対策の要は、手荷物検査というごく当たり前のことが大きく有効だと認識すべきだ。
 
これを受けて、芸術監督を務める津田大介も会見を開き、こう謝罪した。 
「まずおわびしたいのは、参加した各作家の皆様。(開幕から)たった3日で展示断念となり、断腸の思い」
「これは、この企画を75日間やり遂げることが最大の目的。断腸の思いだ。こういう形で中止、迷惑をかけたことも含めて申し訳なく、実行委員会や作家には、誠意をもっておわびをしたい」
「参加作家の方に了承を得られているわけではない。このことも申し訳ない。円滑な運営が非常に困難な状況で、脅迫のメールなども含めて、やむを得ず決断した。そのことも、作家に連絡をしておわびをしたい」
「電凸で文化事業を潰すことができてしまうという成功体験、悪しき事例を今回、作ってしまった。表現の自由が後退する事例を作ってしまったという責任は重く受け止めている」
いやこれからでしょう。発信力を利用して問題を可視化させ続け、電凸で文化事業を潰すことができてしまうこの国の問題点を論じ、人々の意識を向けさせる、という責任の取り方もある。



一方、この突然の中止決定を受け、「表現の不自由展・その後」実行委員会(アライ=ヒロユキ、岩崎貞明、岡本有佳、小倉利丸、永田浩三)が3日夜に会見。中止決定が「一方的に通告されたもの」と明かしたうえで、こう強く抗議した。


「圧力によって人々の目の前から消された表現を集めて現代日本の表現の不自由状況を考えるという企画を、その主催者が自ら弾圧するということは、歴史的暴挙と言わざるを得ません。戦後日本最大の検閲事件となるでしょう。
 私たちは、あくまで本展を会期末まで継続することを強く希望します。」
(声明文より)


同展実行委員会の言う通りだろう。暴力によって表現の自由を踏みにじる言論テロは断じて許されないが、そのテロ行為から美術展を守るべき行政が簡単に中止要求を受け入れてしまったことは大きな問題だ。
経験もなく、慣れてもいないから、具体性よりイメージで恐怖し、フィジカルなダメージを受けずとも、その可能性を示されただっけで震え上がり、用心に越したことはないと、取り下げなかったことにしてしまう。
日本社会の典型的なトラブルシューティングが、匿名の集団攻撃・電凸を有効な手段として日本社会に蔓延させた。


津田氏の会見もああいう形で会見をする前に、やるべきことがあったはずだ。津田氏は会見で謝罪の言葉を何度も口にしていたが、そんな必要はまったくなく、むしろ、こうした圧力や攻撃、テロ予告に毅然と抗議し、「こうしたことが起きるからこそ、この表現の不自由展が必要なのだ」と、展示の続行を主張するべきだった。それがいったいなぜ、こんなことになってしまったのか。全国紙の愛知県庁担当記者がこう解説する。
「津田氏の抜擢は大村知事の肝いりで、大村知事も企画の概要だけでなく、少女像の展示についても6月には認識していた。ところが、この事態で大村知事が一気に弱腰になり、中止を決断してしまった。後ろ盾である大村知事の決断で、津田氏も中止に応じるしかなかったのでしょう」

大村知事が怖気付いて、そこで津田氏が、自身のみの判断で中止を決められること自体が、民主主義意識がないということなのでは? 話し合えよ。それが民主主義でしょう? 他のビエンナーレの遂行困難、なら、表現の不自由展だけ保留にし、厳重警備し、アーチストの意見も交え世論に訴えていくような、開かれた議論にしてゆくこともできたのではないか。密室でトップダウンで決めてゆくから、声の大きい一部の人に屈してしまいやすくなるのではないか?


 しかし、だとしても、一番の問題は大村知事や津田氏ではない。ネットでは、津田氏に対して「覚悟が足りない」などとしたり顔で批判する声が溢れているが、そもそも「ガソリンで火をつけられる覚悟や対策をしないと自由にものが言えない国」なんて、まともな民主主義国家ではないだろう。
いや、自由とは勝ち取るものだという意識が日本以外の多くの国で共有されている。やはり日本は民主主義国家の維持に対して覚悟の足りない箱入り国家だ。そして、敗戦の地獄を経て与えられた民主主義に価値を感じ、慎重に維持してきた日本は、今度は自分たちの手で戦って取り戻さなければならない事態に踏み込んでしまった。本来、そんな覚悟をしなくても、選挙に行って、歴史修正主義で、極右煽り、嫌中嫌韓北朝鮮危機で国民を脅すような愚かで危険な政権を止めることができた機会は何度となくあったのだ。それを、しなかったのは、民主主義というものを自分たちの手で勝ち取ったものではない、当然享受できる空気のようなもの、としてきた国民の招いた結果なのだ。選挙ごとにどんどん民主主義破壊がひどくなる。
”芸術は坑道のカナリア”もう危機的状況だ。


今回の問題でもっとも批判されなければならないのは、卑劣なテロ予告者であり、検閲をちらつかせてそうした動きを煽った、政治家連中ではないのか。
いやそういう劣化した政治家連中を選び続けてきた国民、あるいは無関心に我関せずと投票を放棄してきた国民(投票放棄を呼びかけた津田大介氏、あなたもだ。ただ今回はきっと相当傷ついたでしょう。これからに期待します。)が、最も反省すべきなのだと思う。

あいちトリエンナーレ」は、8月1日の開幕早々から、「慰安婦像」を展示しているなどとして、猛烈なバッシングと圧力にさらされていた。
 2日にはネトウヨのみならず、菅義偉官房長官、柴山文科相、河村たかし名古屋市長、松井一郎大阪市長、和田政宗参院議員といった政治家たちが、展示を問題視するような発言を連発した。

右傾化に拍車をかけ、全体主義国家を確立する手段として、国民の感情を誘導しやすい韓国へのヘイトを誘導。そんな中火中の栗に手を伸ばす慰安婦像の展示は、まさに我が意を得たりの政治プロパガンダ化し、国民を煽り、言論封殺をみなさんの手で完成させましょう!!だ。



河村市長、菅官房長官の扇動、そしてテロ予告を放置した警察


 とくに大きかったのが、河村市長が「展示を即刻中止するよう大村秀章・愛知県知事に申し入れる」と宣言したこと、そして菅官房長官が補助金をタテに「表現の不自由展」に介入することがさも当然であるかのような発言を行ったことだ。


 詳しくは、前回の記事を参照してもらいたいが(https://lite-ra.com/2019/08/post-4880.html)、河村市長の申し入れは明らかに憲法違反の検閲行為であり、菅官房長官らがちらつかせた「国から補助金をもらっているのだから、こんな作品の展示は許されない」という論理は、まさに全体主義国家の考え方だ。芸術への助成は国からの施しでなく、表現の自由を保障するための権利であり、民主主義国家では、それが政府批判の表現であっても、助成金を交付すべきなのである。
これが今回の問題の最も重要な点。一極右市長の愛国パフォーマンスなんかより、明らかに政府が言論統制、
表現の選別に関与した事実だ。


 カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝裕和監督が同様の批判を受け、「補助金をもらって政府を批判するのは真っ当な態度なんだ、という欧州的な価値観を日本にも定着させたい」「公金を入れると公権力に従わねばならない、ということになったら文化は死にますよ」と真っ向反論していたが、その通りだろう。
こういうバッシング自体が、国が国民の上に来るという全然の価値観から一歩も進歩してこなかった、民主主義を享受してきたが理解していなかった日本という国の実態だ。 


いずれにしても、こうした権力者の介入により、表現の不自由展へのバッシングはさらに過熱。ネットでは職員の名前が晒され、テロ予告のファックスまでが送られてきた。
 しかし、不可解なのがこのテロ予告への警察の対応だった。もし、テロ予告があったなら、警察が脅迫犯を逮捕するなり、警備で安全を確保するのが普通ではないか。「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」との脅迫はFAXで送られてきたというが、警察の捜査能力をもってすれば、発信元を見つけ出すことは不可能ではないだろう。また、犯人を逮捕できなくとも、会場を厳重警備し安全を確保した上で、展示を再開することはできるはずだ。しかし、今のところ、警察が動いた形跡はない。大村知事が会見で語ったところによると、「警察には被害届を出しましたが、(脅迫)FAXの送り先を確認できないかと尋ねましたら『それはできない』」と一蹴されたという。そして、逆に、夕方17時には「表現の不自由展・その後」企画そのものの中止が発表されてしまった。
このことをして、政権が、こうした明らかな、しかも市民社会を脅かすテロに対する取り締まりを行わない確信犯であるとわかる。いや、取り締まられては困るのか?


警察がまともに捜査していないはおそらく、テロ予告の対象が、安倍政権のスタンスに反するものだったからだろう。日本の警察は、穏健な市民のデモを鎮圧し、コーヒの値段でカフェラテを飲んだコンビニの客を逮捕するが、安倍政権と思想を一にするテロ予告については、まともに捜査することさえしないのだ。
政府筋からのいつもの戦略的ネット攻撃だったとして、ただ、犯罪となるような文言で脅してしまったため、調査され、身元が特定されては困る。だから警察に忖度いただいて、
また国民の興味が失せるまで、だんまりで決め込もうといういつのも作戦?



テロを非難しなかった安倍、菅、逆に主催者に謝罪を要求した河村


 ここまでくれば、誰をもっとも責めるべきかがわかってもらえたはずだ。今回の「表現の不自由展」中止は、紛れもなく公権力の検閲行為の結果なのだ。テロ予告を誘発もしくは放置したという意味では、「官製テロ」と呼んでもいいだろう。
  しかも、展示中止が発表された後も、政治家の対応はひどかった。民主主義の根幹である表現の自由を揺るがすテロ予告があったことが明らかになったわけだから、政府首脳が「断じてテロは許さない」「犯人逮捕に全力を尽くす」と宣言するのが普通の民主主義国家のはず。ところが、安倍首相からも菅官房長官からもそんな言葉は一切聞かれなかった。


 さらに、河村名古屋市長にいたっては、「(平和の少女像設置は)『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる」「「事前に『出してはならん』とは言っておらず(検閲には)全く当たらない」などと無茶苦茶な論理を主張したあげく、「やめれば済む問題ではない」と、テロ予告者でなく「あいちトリエンナーレ」側に謝罪を要求する。
ところが、5日の会見で、河村名古屋市長は自分の脅迫被害者と言っている、、、。トーンダウンして非難の矛先回避。ある種の愛国者に見られる変わり身の早さ。津田氏選定の経緯、慰安婦像設置の経緯、中止に至った経緯が明かされていないといい、明かされるべきと主張した。津田氏と大村知事の癒着を匂わせているのか?とにかく密室決定は問題なので徹底して後悔し、議論すべき。そして脅迫、名古屋市長まで脅迫を受けたのだから、警察は動かないといけないでしょう(藪をつついて蛇を出すかも)


しかも表現の自由は制限されてしかるべき、規制は必要でしょう、とトンデモ発言、これは公務員として問題でしょう。


河村市長はもともと、『南京事件はなかった』と発言するなど、露骨な歴史修正主義者であることに加え、大村知事とは非常に関係が悪化している。ここぞとばかりに、この問題を利用して攻撃しているんでしょう」(前出・愛知県庁担当記者)
 いずれにしても、この国の政治家連中は本音のところでは、反政府、反体制の表現、自分たちの気にくわない表現を「検閲で禁止すべき」「テロされても当然」と考えているのである。


しかも、恐ろしいのは、その政治家のグロテスクな本音が今回、おおっぴらにまかり通り、平和の少女像撤去、さらには「表現の不自由」展が中止に追い込まれたことだ。
「この事態こそが“表現の不自由”を象徴している」などとしたり顔で語る向きもあるが、そんなメタなポーズで済ませられる話ではない。これは日本の表現空間の自殺とも言えるもので、今後、日本の公共空間で政治的な主張を含む芸術作品、表現を展示・公開することはほとんど不可能になった、ということを意味している。
「表現の自由」が後退し、どんどん全体主義国家に近づいているいまの状況に、私たちはもっと危機感を共有すべきではないのか。
(編集部)


”官製テロ”うまいことを言う。安倍政権のやり方は常に、テロの心理的効果を採用してきた。では、どうすればいいのか。まずメディアがこの問題をただの、アート 表現の自由に対する攻撃、嫌韓、だけでとらえずに、政権のテロに対する対応として、オリンピック・パラリンピックを見据えた、議題として引き続き大きな議論を巻き起こしてゆくことだ。もちろん、国会でも、愛知県の問題としてではなく、今後のテロ対策としてこの問題を議論してゆくことだ。そうしてゆくことで、蛇が出るかじゃが出るか?ケチって火炎瓶的なのもが出てくるか?。絶対に今回脅迫文送付者の身元を特定し、相応の処罰を与えない限りこの問題は収束しないしオリンピック等に禍根を残すとして、政府を追い詰めてゆくことが大切だと思う。メディアも野党も踏ん張りどころだ。


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