密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

五輪開会式・1964年市川崑『東京オリンピック』復刻版を見た。

『記録か芸術か』この議論を巻き起こし、今日に至るまで、最高のドキュメンタリー映画と世界で評価される市川崑監督の1964年『東京オリンピック』がデジタル画像で完全復刻
されたものをDさんが入手して二人で見た。この復刻はIOCによって行われた。


日本の五輪の醜さにうんざりして、五輪アレルギー状態だったが、このドキュメンタリーはすごかった。確かに、平たく言うと芸術の重要要素である、ある種の説明のできない部分がたくさんある。映画カメラ案ではなく164人の報道カメラマンに撮影を依頼。じゃーなりステックな視点の絵を集めた。オリンピックを素晴らしく、感動を記録すると言うよりは、
多くの視点から事実を集め、それを市川監督の深い人間とその社会への洞察と、メッセージが込められているように感じた。アスリートに対してだけでなく、人間への賛美も感じた。
映像的にもクロスアップの多様で、抽象性の高いビジュアル、そこに、黛敏郎氏の現代音楽の抽象的でちっとも元気でも明るくもない、むやみに感動を盛り上げる安易さのない、淡々としてミステリアス音楽がエンドロールまで映像世界を包含し、そして、エンドロールで、マーチ(軍隊的な要素の音楽だ)そして聖火の火が消える映像の後、メッセージが現れる。
夜 
聖火は太陽に帰った
人類は4年ごとに夢を見る
この作られた平和を夢で終わらせていいのだろうか


どうも近年の日本の表現は芸術・文学・哲学・真善美から、ダサいと離れ、電通とその周辺のクリエーターさんたちを中心に、軽く、子供っぽくなりすぎているように思う。一国の首相がスーパーマリをの扮装で笑いを取る。日本の売りは、アニメとゲームとターゲットを絞る、広告代理店なら一番売れるのも、一般が簡単に興味を持つものを押し出して、日本ってこれ!!て、開会式も作っていく? だからオリンピッグという発想も出す。もう遅いけれど彼らはこの、市川監督のドキュメンタリーをしっかりと見るべきだ(まあ見ても、ああショーワだねぇ〜という感じで流されてはどうしようもないが)根本は人への思い、そこから広がってほしい。人を笑い見下して有能な自分とお仲間だけ高みのCOOLに駆け上がったつもりの創造物には、どんなにお金をかけても、技術を駆使してアメージングワールドを展開しようとも(とはいえそれさえ、十分間に合わない、花火だのみのように見えたが)心は動かされないのではないか。


ピーターパン的(マリオ的、ドラクエ的、遊戯王的 鬼滅の刃的)成長期の、夢と冒険(葛藤・達成・友情の物語もある)ももちろん、あってもいいが、社会に対する複雑な目線と、知性、自国文化と歴史への深い理解の舞台の上で、踊ってこそのサブカルのように感じる。


3時間(2時間50分)のこのドキュメンタリーは、全く長さを感じられなかった。映し出される、1シーン1シーンに、様々な映画を見たような、美しい構図、驚き、喜びの瞬間、郷愁や、悲しさ、もちろん緊迫と感動と共感もあった。


常にタダでは済まないDさんは、この後、ベルリンオリンピックのドキュメンタリーを見ようといった。これはデジタル復刻されていないので画像はあらい(IOCも復興しようなどと思わないのだろう)。統制された壮大な美、もちろん今見ると、その統制が不気味でもある。そんな中、アメリカ人のアフリカ系アスリートが、金メダル(銀メダルもカナダのアフリカ系選手)を取った時のヒットラーの怒りのほどとか、アナウンサーが、選手紹介の時、カナダより、***・***・ブラックと紹介してしまっていたところろか、映画的には見るべきものが多いのかもしれないけれど、そっちの方に気が行ってしまった。


そして、重ねてタダではすまないDさんは、この後8時からの東京オリンピックの中継を見ようといっている。写真や、ショート映像、記事で見て、う〜ん見なくてもいいかな、だったのだが、もしかしたら意外な”感動”があるのかもしれない。辞任ドミノに対する同情で、意外に共感があるかもしれない、、、かもしれない、ので、しぶしぶ見てみることにする。
見ずに、クリエーターさんたちを中心に、軽く、子供っぽくなりすぎている(五輪開会式に対してだけではないので、こう感じているのだが)と、決めつけるのは良くないしね。


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