密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

五輪開会式、予想を上回る、、、日本の文化水準劣化への盛大なぼやき

市川崑”東京五輪”  ベルリンオリンピック、を見て、で。気が進まないなか、2021東京五輪開会式中継を見た。多分日本の放映と、だいぶ違うと思う。当然、USAチームに焦点が絞られ、USチームの明るい力強いベクトルが示された。長いと評判のバッハ会長のスピーチも、程よくカットされ、徳仁さんのトーンを落としきった開会宣言、日本語変えても英訳は変えずの外務省苦肉のダブルスタンダード、それでもよく頑張った。これだけのことでも、どれだけ大変か、同世代天皇に拍手。


開会式は、昨日の記事で、見る前から、
どうも近年の日本の表現は芸術・文学・哲学・真善美から、ダサいと離れ、電通とその周辺のクリエーターさんたちを中心に、軽く、子供っぽくなりすぎているように思う。一国の首相がスーパーマリをの扮装で笑いを取る。日本の売りは、アニメとゲームとターゲットを絞る、広告代理店なら一番売れるのも、一般が簡単に興味を持つものを押し出して、日本ってこれ!!て、開会式も作っていく? だからオリンピッグという発想も出す。もう遅いけれど、彼らはこの、市川監督のドキュメンタリーをしっかりと見るべきだ(まあ見ても、ああショーワだねぇ〜という感じで流されてはどうしようもないが)根本は人への思い、そこから広がってほしい。人を笑い見下して有能な自分とお仲間だけ高みのCOOLに駆け上がったつもりの創造物には、どんなにお金をかけても、技術を駆使してアメージングワールドを展開しようとも(とはいえ、それさえ、十分間に合わない、花火だのみのように見えたが)心は動かされないのではないか。
ピーターパン的(マリオ的、ドラクエ的、遊戯王的 鬼滅の刃的)成長期の、夢と冒険(葛藤・達成・友情の物語もある)ももちろん、あってもいいが、社会に対する複雑な目線と、知性、自国文化と歴史への深い理解の舞台の上で、踊ってこそのサブカルのように感じる。
と書いたのだが、実際見ると、この予想を大きく上回っていた。
まず、あのどでかい楕円のスペースを処理しきれていない。人数も仕掛けも少なすぎる。
チームラボ仕込み(多分)の映像効果は、その中でパフォーマンスする人々を圧倒し飲み込んだ。実際チームラボだと、壁、床で体験する人を飲み込み幻惑するが、あの平板の競技場では、単なる平面の映像作品だ。あれなら、人はいらない。人と映像・影の効果ですごかったのは平昌五輪のオープニングセレモニー、総監督はソン・スンファン、総合演出は梁正雄、音楽監督は梁邦彦、映像とパフォーマンス、影の使い方、ストーリー、民奥のつながり、ドローンの使用と本当に感動した。


今回のパフォーマンスも、いまいち素人臭い、ボランティアの人が一生懸命やっている?ななに何人かダンサーもいる?でもピンで会場を惹きつける器量はない、ので、学芸会感が否めない。発想が貧困で、最初のジムのマシーンも置いたその時点で全体の動きを不自由にし、かつチープな日常が入り込む。歴史取り入れは、安易に江戸・大工と火消し物語、せめて本職のとびの梯子芸でも入れればいいものを。最後の方で、申し訳に登場した海老蔵の歌舞伎と、ジャズピアノ、チョットずつ美味しそうに盛り付けたが、粋を尽くした松花堂弁当ではなく、お子様ランチだ。


それと言い訳みたいに、LGBT・被災者・障害者・エッセンシャルワーカーそして高齢者を、散りばめたのも、扱いの軽さが出ていて、共感を伴えない。LGBTのアスリートが一人もいない日本が、開会式にLGBT運動のシンガーにレインボードレスを着せて国歌を歌わせる、それで何が変わる、彼らは何お認識も変える気はない。ただ世界に言い訳的にLGBTフレンドリーを示しただけだ。


それとなぜ、旗を扱うのは自衛隊なの?なんか法律でもあるの?旗を掲揚できるのは、”軍人”だけ、とか。日本に軍隊は無いことになってるんでしょう、今のところ。特にそういう法律は見当たらないけど、、、。なんでも曖昧の国日本。

そして、富士山を模した聖火台の上の玉が割れて火を吹く、という演出、意地悪な捉え方だが、縁起でもねぇ〜。大坂なおみさんの存在感が、あの救いようのない状態を、集中力のあるフィナーレにした。野田聖子氏は、スターの存在感をよくわかっている。


王さん・長島さん・松井さんもかつてのスーパースターだ、強いヒーローのように見せる演出ができたのではないか。後進に支えられてよろよろ歩くミスタージャイアンツ。彼自身がどう、というより、あの姿に未来の明るさを見て勇気付けられた同世代の人々がいたとでもいうのか。車椅子でも、ヒーローはヒーローだ。もう少しなんとか演出の工夫があっても良かったと思う。


ぼやきはまだまだ続く、五輪のマークを使った”コント”せいぜい2〜3分ならいいが、くどくて長くて、So What?!ラーメンズ的?小学校の舞台でなら子供達は喜ぶだろうけど、多分最後までは持たない。何がしたかったんだろう。


劇団ひとりのトリックスター、、、、彼は役者として嫌いじゃないけど、でも、どの人たちも、五輪の中心で盛り上げるには存在感が小さすぎる。お手盛りの融通のきく人だけで、うちわで盛り上げようとしすぎ。大きくなった不思議ちゃん不思議くんフェスティバル。それもいい五輪の歌会式でなければ。これは世界に発信されるのだ。予算だって一日あったでしょう?その予算は?アメリカのインテル社(後述)に支払い?


監督サイド、いやメインの”クリエーター”が使い勝手いいメンバーを集めただけのため、深みも広がりもない。


近年のオープニングセレモニーは、その国の明暗を含めた歴史、伝統から現代までの文化、
テクノロジー、そして人々のパフォーマンス、そこから世界に発信するメッセージが表されている。ところが、なんでもちょい集めで、統一感もなく、メッセージもない。これではいかんと、平和の象徴・ジョンレノンのイマジンか。歌唱力に定評のある素晴らしいシンガーたち、で、日本人はどこに?アジア人は、中東の人たちは?アメリカなら、お年寄りから子供、人種、LGBT 様々な背景の人たちが’歌う映像を作っただろう。そういうことはよくある。頼るなよ、ジョンレノンに!!本当になんの芯もないがっかりな日本だ。


唯一の感動は、ドローンのパフォーマンス。ああやっと日本の誇るテクノロジーで、人々を魅了したか、と一瞬喜んだが、これも、アメリカのインテル社の、すでにレヂィーガガ’のコンサートなどで行なっているパフォーマンスだった。


そして入場セレモニー(書く順番の時系列がごちゃごちゃですみません)各国選手が、カジュアルに入場。プラカードはマンガの吹き出しって、いいアイデアだ!!とでもか思った。同一色の線の構成で、見づらい。吹き出しを使いたいなら、吹き出し内を色にしてそこに国名。色を国ごとに変えるとか、会場の広さに対しての、プラカードの役割について、近視眼的すぎる。


そして最もイライラしたのが、入場時にお出迎えに並んでいる人たちの、服と動作。
考えられた各国選手のユニホームに対して、ひらひらぶかぶかのコスチュームは、うざい。
モノクロのインナーもうるさすぎ、あれ、ダサ可愛いの狙った?選手団を引き立てない、悪目立ちで、かつ、あの動作。やってる人たちも、かなり大変だっただろう。終始手を肩より上に腕をげて、手をぴらぴらふり、飛び跳ねるあの動作、そう、あれは着ぐるみの動作だ。
だったら、全国からゆるキャラを動員したらどうだ。どうせ、中身の薄い軽薄な国に達するなら、ゆるキャラ大集合の方がよほどましだ。若い選手たちには大受けだろう。
ある意味日本のご当地ゆるキャラは庶民文化だ。コメディアン・ジョンオリバーもアメリカに紹介〜不思議の国日本。



完全にバカにされてるけど、悪名は無名に勝る。これはこれで、結構いいと思う。


それから、あの変な帽子は、遠目に見ると、ナチスのヘルメット(まあ、ダースベーダーという方がピンとくるか)のようだ。炎天下でやるわけでもなし、没個性化を図るなら、おかめ・ひょっとこ・狐の面でも被ったら、良かったかも。
とにかくデザインとお出向かいがでしゃばりすぎ。パフォーマーのせいではない、すべてデザイン首脳部の独りよがりに由来する。
世界をおもてなしするファッションなら、イッセーにでも、ヨージ山本にでも、他にも素晴らしい世界レベル素晴らしい才能のファッションデザイナーたくさんいただろう。そういう人に、ファッションの総監督を依頼すべきだった。ボランティアの服も居酒屋店員にならなかっただろう。


全てが、何か、融通のきく人間を集めてお手盛りで集めた、オリンピッグ辞任の電通クリエーター佐々木氏の軽さとダサさに由来するように感じる。いや電通と経産省の軽さとダサさに由来するように感じる。


個性の強い一流の人間に依頼し、まとめ動かすのは骨が折れる。でも、それができて始めた、”クリエーター”でしょう? そうして、厚みのある中で、若手パフォーマーを組み入れ、彼らの発想も活かすことが必要だった。クリエーター=調達屋 予算を握って権力とし勘違い。アーチストは疎外扱い。ボランティア・若いパフォーマーは人形扱い。


まだまだぼやくぞ!! 音楽:いじめ作曲家がさった後釜に、極右の歴史修正主義の大御所が鎮座したようだ。この方、ご夫婦で、安倍ちゃん大ファンらしく、以前、行きつけのバー
(というより古いサロンぽいとこ。かわいい上品なお母さん的ママがいる)で、政治談義をしていたら、おくさんに、「あなた!!それ安倍さんのこと!?」とキレられたことがある。「それはご想像にお任せします」と丸く収めた?が、それ以来、帰国するたびに顔をだしていたそのバーにはいかないことにした。よくよく会話に耳をすませば、Will・ハナダ的認識がプンプンする、日本愛国の上級国民のるつぼになっていた。以前はそんなことなかったのに、、、と思いながら、平民は消え去るのみ、と実感した(目がイってたし、めんどくさいし)


武満・富田亡き後、誰が日本を代表する作曲家か?と思って検索したら、もちろん坂本龍一、久石譲、とでてきた。そこの、菅野よう子という若い女性の名も上がった。
どんな曲だろうと、調べたら、なんと、TV版攻殻機動隊のテーマ曲を作曲した人だ!!
大好きなんだよね。他にも、素晴らしい曲を作っていて、この人を入場曲作曲になぜ選ばなかったんだ?ある人物が必要に盗作疑惑が流布している様子が見て取れる。女性は目立つと叩かれる? とにかく彼女のことがわかったのは大収穫だった。
これなんか、オープニンテーマでもいい。

The Tower of Babel - Yoko Kanno
タイトル、The Tower of Babel 神の怒りをかって、そのために、言葉を分断された人類、
でも、ある意味、人間の挑戦の象徴バベルの塔。雷に破壊されたバベルの塔、それでも人類は、また挑戦を続ける。だだしたった一人の王ネブカドネザルの野心のためではない、人々の夢、その先、そんな気持ちになる曲だ。


日本の世界に誇る表現者たちを無視し、〜そういえば国立競技場も、なんかマッチョなゼネコンで、エコで融和的な建築を提案した、建築家ユニット「SANAA」の妹島和世(せじまかずよ)氏のプランは秀逸だった。木だけで主張喉伝とした競技場じゃない、繊細さと、環境との融合が見事だった。日本のおじさんたちの価値観に引っかからないんだよね。別に隈研吾建築が嫌というわけじゃないけど。でもあのどでんとした楕円形、花火効果も、中国のバードネストに遠く及ばない、退屈なものだ。
 
いきなり話が逸れたが、なんだか日本の劣化、反知性主義・新自由主義の侵食は、広告代理店クリエーターが培養してる、そう感じる。 それも、芸術や伝統文化、技術に対する深い考察や理解をせず、使える素材としてしか考えない、チャラ・クリエーターがのさばり、お互い”ちゃんづけ”で呼び合う、チャラ官僚・チャラ・ベンチャーCEO が俺たちが国を動かす(税金付き放題で)までに、なり上がってしまった日本。


世界の芸術に対する理解と真剣さ、文化へ尊敬と洞察、歴史はの真摯な検証の姿勢、どれを取っても今の日本はただ馬鹿馬鹿しい程レベ宇野国であることを、世界に発信した。
おめでとう、東京五輪、ニッポンチャチャチャ、ニッポンチャラチャラ・チャチャチャ。


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