密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

ウーマンラッシュアワー・村本大輔氏の芸に震える

コメディー(笑いをベースにしたパフォーマンス)で泣いたのは、桂米朝の”たちぎれ線香”以来だ。日本において稀有な、社会にナイフを突きつける漫才を行う村本大輔氏。


取り憑かれたよう喋り続け、立ち方も不安定でそのバランスは、かろうじて相方中川パラダイスの肩に置かれた手とスタンドマイクで支えている。この姿勢が象徴的に見える。
唯一、村本大輔氏を普通の社会(日常・平和・幸せ)に繋ぎ止めているように見える相方、もう一方で彼のしゃべりを人々に発信するマイク、そのビジュアルも大きな効果を上げている。痛々しくヒリヒリと切りつける、社会に無視された透明人間の声を伝える。


作家の村上龍氏が、「僕の小説は、人々の悲鳴の翻訳だ」とあとがきに書いていたのを思い起こさせられた。


昔、恩師に「お前は両刃の剣を剥き身で腰に下げて歩いているようなもんだ、相手も傷つけ、自分も傷つく、さやを見つけろ」と言われたことも思い起こされた。今は立派なさやが見つかり、刀が溶けているような気もするが、村本氏はさやを纏わず、たださやの存在を傍らに置くことで、社会や人間とつながっている。そんな風にも見える。こういうヒリヒリとしたギリギリの立ち位置でいる表現者は美しいと思う。イライラはしてもヒリヒリできない自分を苦しく思う。



ウーマンラッシュアワー、 THE MANZAI 2019 マスターズ
年に一度しかテレビで漫才できないと言う彼らを、原発を抱える地方の人が声をかけ、膝詰めの距離で舞台を行なっているようだ。


TVを干された山本太郎氏が、地方から声をかけてもらい、全国で小講演を行い、それが街頭記者会見の前身となっていると話していたことも思い起こされる。


村本大輔という人はどこに行くのだろう。アメリカで舞台に立ちたいと言っていたが、あの日本語の芸を、英語で行うことは不可能に近い。日本は芸の世界も窮屈で、既得特権に守られ、緩く(権力者に媚びて桜なんか見ている)かつ出る杭は打たれるの世界だから、アメリカに行きたいと思ったのだろう。しかし彼の怒りの根源は、今の日本社会の歪みと社会に無視される人々のを泣きながら笑わせること、与えられたものを無思考に享受して生きる人々を凍りつかせることでもある。


あの怒りが社会を変える方向に動かないとは言えないが、”れいわ”から立候補してほしい、などと軽々しく言えない、彼のコメディアンとしての存在感がある。それでも、生きづらい日本の社会、腐って緩んだ芸能界(吉本と安倍政権の癒着)を、原発の村を、在日差別を、政治で変える選択肢もあるのではないかと思う。


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