密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

アートと性差別

最近企画された『美術館女子』というものへの怒りの記事を読んだ。

昨年、「美術館女子」という名称のプロジェクトが発表されるや批判を浴び、公式サイトが閉鎖された。企画したのは全国約150の公立美術館で作る「美術館連絡協議会」と読売新聞オンライン。



説明には、女性アイドルが「各地の美術館を訪れ、写真を通じて、アートの力を発信していく」とあった。そのため、女性アイドル自身が撮影者としてアートを紹介する企画なのだと思っていた。ところが実際にサイトを見てみると、第三者が女性アイドルを撮影し、その背景に美術館や作品が写りこんでいる―という構造だった。
 

そんな写真に添えられていたのは〈今度は『美術館デートコーデ』に着替えて、パシャリ。〉などの文章。男性が女性をエスコートするデートだろうか。恋人の女性を被写体に、男性がデート写真を撮るイメージが制作側にあると感じた。
 

これは美術作品におけるアーティストとモデルの関係にも似ている。何かを見て創作する側を男性、モデルとして身体を提供する側を女性とする構造があるからだ。この構造は根強く、実在する女性の内面性や個性を重要なものとみなさない方向に力を貸してきた。
 

「美術館女子」のサイトにも、女性=無知な鑑賞者、と前提しているかのような文章があった。〈芸術って難しそうだし、自分に理解できるのかな〉〈知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間の「わっ!!」っていう感動。それが全てだった〉。実際の美術館への来館者には多くの女性がいるのに…。
 

社会のあちこちで、女性に「無知」でいてほしいという願望を感じることがある。アートにかかわる場所だと、たとえばミュージアムや画廊などで、頼みもしないのに作品や資料の解説を長々と披露する年かさの男性を見かける。相手はたいがい女性(時に年下男性)である。「女性は高尚な芸術など理解できないだろう」という無意識が透けているように思える。
 

自分が受け持つ授業で、美術館女子をテーマに議論したことがある。女子学生は「私たちをばかにしている」と皆大変憤慨していた一方で、「美術館に行ったら『今はやりの美術館女子か』と蔑みの眼めで見られるかもしれない」と恐れてもいた。自分が心から楽しめる環境で作品をじっくり鑑賞することさえも邪魔されるなんて。ため息が出る。



確かの「**女子」というネーミングに保守親父的婦女子啓発教育くささが滲み出ている。
ただ、150の公立美術館としても、あの手この手で入場者数を増やさないとならない切実な思いもあるだろう。日本各地にそれはかっこいい現代建築の美術館がある。建築という芸術の発露の場としいて、精勤をふんだんに使える公立美術館は、建築作品の発表のステージであるが、長い時間の中、人足をキープできない悩みがあろう。だからこういう企画にも乗ってしまう。


ワタクシ的には”美術館デートコーデ”はいいと思う。NYCの美術展に行くときは、奇抜なファッションも楽しむしそれをDさんが写真に撮る(ほぼ抽象写真になるが)そういう人は、ワタクシだけではない。かっこいい着こなし、ファッションを見るのも楽しみの一つだ。


〈芸術って難しそうだし、自分に理解できるのかな〉〈知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間の「わっ!!」っていう感動。それが全てだった〉
ってセリフ、クサ、だけど、みた瞬間の感動それが全ては当たっている。美術が高尚とか、理解とかということを考えなくてはならないと思思い込み自体が前時代的だ。

女性は高尚な芸術など理解できないだろう」という無意識が透けているように思える。
基本、さみしいだけのような気がする。アートを通じて若い女性と(若い女性とtいうところが胡散臭いが)話しができる機会を求めている?すべては人による。貴重な知識をいただいた経験もある。苦痛に感じたら、「すみません、静かに鑑賞したいので」と断ればいい。


この記事の筆者のお気持ちも十分わかる。若い頃は、画廊の解説おじさん、うんちくおじさん、論破親父などうるさい人に悩まされたが、『女性は高尚な芸術など理解できないだろう』って動機でもなさそうだ。何しろ作品の制作者本人に挑むわけだから。コミュニケーションを取りたくて、その方法がずれているだけなんだろう。それも、その画廊の体質にも寄る。 


男性も頑張って彼女を美術館に誘い、豆知識を披露して彼女に感心してほしいと、努力するような人が増えることも好ましい。ただ、彼女の方が知識があることに拗ねるような態度は見苦しいと自覚も必要。


”美術作品におけるアーティストとモデルの関係にも似ている”というくだり。まあ、日本はいまだに花鳥風月+なぜか美人画(ヌードや半裸)が美術画廊の底辺を支えている。
しかし、現在美術館で企画される展覧会はそういう男性アーチスト&美人モデルの関係性を飛び越えている。
性を題材の攻撃的な作品、LGBT、特にゲイのアーチストたちは、同性同士のセクシャルリレーションシップを題材にする人も多い。アメリカの性的な主題の作品は、攻撃的なものが多い。


昔、トライベッカあたりの”クラブ”での一夜限りの『One Night Stand』という展覧会に参加したことがある。テーマはエロス。


パーティーでは、可愛いボンテージファッションのお嬢さんがコンドームと潤滑剤を配って歩く。ゼリーを足でコネコネしたり、乱暴に踏み潰したり、という動画と写真が印象に残っている。ああ、SEXにエモーションだ、と感じた。キューレターが選んだワタクシの作品はこれ、

ダイレレクトに、Sexが表現される作品が溢れる中、この作品がもっともエロスを感じるとキューレターが言った。しかしこれは阪神淡路大震災の時に、人々の喪失感への表現で作ったものだ。哀惜・不定・焦燥・諦観とそれぞれタイトルがついている。それでも人によっては、エロスを感じるというのも理解できる。蠱惑を感じると言ってくれた方もいた。


まあそれはさておき、アートにおいて、時代時代で、反社会的・不道徳と謗られた作品は多い。現在のルール無用のアメリカ美術界においてさえ、このダイナマイトにエロティックな作品が物議を醸している。巨大マリリン!!!

アンダーマリリンコーデのお二人。


制作者の意図は無論このスカートの下なのだろう。シカゴ展示時期は雨宿りの場所としても好評だったらしいが、カリフォルニア州パームスプリングスに移設に際し、性差別と地域住民から非難の声が寄せられているらしい。


カリフォルニア州パームスプリングスに設置されることとなったマリリン・モンローの巨大像「フォーエバー・マリリン」(Forever Marilyn)に、地域住民から非難の声が寄せられている。NPRが報じた。


映画『七年目の浮気』でスカートが地下鉄の風で舞い上がるシーンを模した像は、高さは約8メートルのステレンレス製。


当初2012年から2014年にも同地に展示されていたが、今回パームスプリングスアート美術館の入り口の前に、3年間設置することとなった。
当初は人気のアトラクションとして見られていたが、マリリン・モンローのスカートの中が見えるため、地域住民は美術館を訪れる子供たちへの影響を懸念しているという。


同美術館のLouis Grachos館長は昨年、美術館を出て最初に目にするのは「巨大なマリリン像の下着であり、非常に不快だ」と市議会に異議を唱えていた。像は、最終的にコーチェラ・ヴァレーに設置されるという。


#MeTooキャンペーンも


美術館の元館長エリザベス・アームストロング(Elizabeth Armstrong)氏は、Change.org上で、#MeTooMarilynキャンペーンを開始し、反対の署名活動を行っている。


アームストロング氏は、マリリン・モンローことノーマ・ジーン・ベイカーは、11歳でレイプされ、エンターテインメント業界でも性的暴行に苦しんだ女性であり、1950年代に勇気ある告発をしたと説明。「性的欲求をかきたてるような、女性差別的な像を設置することは、訪問者、特に若くて純粋な子供や観光客に、これが”本物のマリリン”で、彼女はこれを誇らしく思っているというメッセージを送る。しかし事実は真逆で、彼女は性的なアイコンではなく、アーティストとして真剣に受け止められることを望んでいた」と反対の理由を述べ、彼女の意思を尊重し、像を撤去すべきだと訴えている。キャンペーンには現在、4万件以上の署名が集まっている。


アームストロング氏はNPRに「像は性差別的であり、”アップスカート”(盗撮)をさせるようなものだ」と主張している。


さらに「マリリン移設委員会」は、当初の設置場所は、下町に経済的利益をもたらされていないと指摘。別の場所への移転を希望しているという。


像の設置を推進してきたパームスプリングスヒルトンのマネージング・ディレクターであり、PSリゾーツのトップ、アフタブ・ダダ(Aftab Dada)氏は「彼女は大半の人をハッピーにしている」と反論。「写真が世界中に拡散され、パームスプリングスに利益をもたらす」とNPRに語った。なおPSリゾーツは、マリリン像を所有しており、購入に支払った金額は100万ドル(1.1億円)だという。(MashupNY)



マリリンモンローを性的搾取の被害者と考え、この作品にMeTooを持ち込むのには、いささか違和感を覚える。マリリン・モンローことノーマン・ジーン・ベイカーは、この自己の性的アピールを武器のし上がったし、多くの人がその魅力にメロメロになった。
彼女は、セックスシンボルではなく真剣な演技者として評価されたかったと言われているが、自分の望む形での成功評価を得られている人はなかなかいない。マドンナかその悔しさを受け継いでくれている。

『7year"s itch〜邦題7年目の浮気』の有名なシーンは、すでにアイコンとなっていて、この作品に性差別云々という真正面の議論を叩きつけ、まあ設置反対というのは地域住民のセンスだし環境破壊にもなるから(リチャード・セラの作品も通勤の邪魔ということで撤去された)、それはいいとして、性差別の巨大なシンボルとして突き上げるのは、過剰反応であり、アートを窮屈にする。


だったらジェフ・クーンなんてどうするんだ。一時期彼のポルノ女優の奥様との色々を作品化していた。MoMAで見た時は、そのバカバカしさに唖然としたが、まあ、その人を唖然とさせるバカバカしさの発露こそ、”芸術は爆発だ” なのかもしれない。


ポップアートの明るさと破壊力こそ、近代アメリカンアートの起爆剤だったと思うから、何でもかんでもPTA会議の議題にしないでほしい。


性的表現への嫌悪・検閲が、女性の権利や性差別に結びつけて行われるのは、意識の逆行
と言わなければならない。


話を日本に戻すと、全記事での、一番の要は「日本人男性は、女性に無知でいてほしい」という、日本の男女関係の通奏低音だ。これには辟易させらてきたが、いまだに根強いということは、日本男児の”存在の耐えられない軽さ”によるものだろう。自分が優位に立っていないと不安で仕方ないという体質は日本の、今の政権の外交にまで見て取れる。
弱きをくじき、優越感を保ちつつ、強きを助ける、まさに情けない日本男児が闊歩している。


日本の女性は声が高く、意味もなく笑うことが、他国では違和感と映る。夫Dさんは、日本の女性はすぐ”ゲコゲコ”と意味なく笑う、と言って、ゲコゲコなんて笑いません!!!と彼のワイフに反発を食らったが、キャッキャ、ウフフ、がゲコゲコと聞こえるというのだから仕方ない。


確かに笑ってごまかす、しらけさせない、あなたのお話楽しんでますよサインの笑い、という手法は、男性優位社会で生きる日本の女性たちには根強い人気だ。少女のような喋り方、高いトーンの声の出し方、動作(昭和の時代、これは同性から、ぶりっ子と呼ばれた。)
すべてが、この自己優位性の欠如に怯える日本男児を受け入れるためのものだ。


アメリカでは、子供でさへ、落ち着いた低い声で、腕組みをし、議論に参加(しようと)するし、スピーチをする。それがかっこいい女性像だからだ。日本も女性たちが、独自のかっこいい女性像を(最近はずいぶんたくさんかっこいい女性がいる)打ち立てて、男性の機嫌をとることをやめて、対等に話のできる環境が醸造されれることを願う。


そういう意味で、この『美術館女子』という企画に腹を立てる人が多かったということも朗報なのかもしれない。ただ、美術館デート、美術館コーデでもなんでもいいから、美術に触れ、そのうちの何人かは本気でハマる可能性があるのだから間口は広い方がいい。
美術館女子を企画するなら、美術館男子も必要だろう。


TVドラマでも、最近は、若い美しい俳優のシャワーシーンが増え、女性のシャワーシーンが減ったように感じる。昭和は何と言っても女性・シャワー・温泉と、暴行シーンが散りばめられていて不快だったが、時代の良い推移を感じる。


それでも、すべての差別意識・抗議者は、PTA的安易な検閲、倫理的安全性の押し付けをするための、錦の御旗に差別運動を使うことは注意しなくてはならないと思う。


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