日本を振りかざすマッチョな超保守政治家の勘違いが国際社会での国益を損なう
前の記事にも書いたが、吉村大阪市長が、慰安婦像受け入れの姉妹都市サンフランシスコに、姉妹都市解消をちらつかせ恫喝。こんなもの恫喝にもなりはしないと書いたが、、案の定、サンフランシスコ市長から、この件の交渉のための面会要請を「交渉、議論の余地はない」と断られた。 これが通用すると思うのが、そもそもおかしい。
米サンフランシスコ市が慰安婦問題を象徴する少女像の設置を受け入れたことに反発し、同市との姉妹都市提携の解消を表明した大阪市の吉村洋文市長は24日、この問題に関しサンフランシスコ市長から「交渉、議論の余地はない」として、要請していた面会を断られたことを明らかにした。
吉村氏は同市のリー市長に直接会って、受け入れないよう求める意向だった。23日に面会を拒否するメールが届いたという。
吉村氏は大阪市内で記者団に「リー市長とサンフランシスコ市議会は(受け入れに)積極的だった」と重ねて非難。今後、幹部会議で提携解消を正式決定し、12月中に同市に通告する意向だ。
(共同)
日本のマッチョ国粋主義者議員は、国内での安倍政権天下に、完全にドメステックな勘違いを起こしている。こんな要求や交渉に応じることは、ゲイカップルの聖地でリベラルなサンフランシスコでは、100%ありえないことだ。 そういうことも判断できない。
同性婚といえば、こちらも、訳のわからないトンデモ差別発言の自民党竹下亘総務会長
2013年フランスのオランド前大統領が国賓として来日したとき、オランドが事実婚のパートナーを伴ったことを挙げ、
「奥さんではないパートナーだという女性が天皇、皇后両陛下と並んで座るわけだから、どう対応しようかと宮内庁は悩んだ」
「(国賓の)パートナーが同性だった場合、私は(出席に)反対だ。日本国の伝統には合わないと思う」
伝統って何?!ちょっと前まで、お妾さん公認、生活が苦しければ親は娘を売る。
女は、親に従い、夫に従い、老いては子(息子)に従え、と公然といってきた日本。
伝統とは時の政権権力者によって作られた制度ではなく、長い時間をかけて受け継がれた、技術、思想、様式を言うし、それは時々で受け継ぐものの工夫も加味され伝承され、磨き上げられ、大きな体系になったものをいうのだと思う。
だいたい”伝統的”に日本には衆道なんてものも公然と存在した。特に若年の少年を性対象にした、若衆道は現代なら児童虐待である。性や婚姻、制度に関わることを自身の浅薄なイメージだけで公職にある人間が公には発言する、それを国際社会に当てはめてしまう、フラットな脳みそをなんとかしてほしい。
こうした指向性は、吉村大阪市長と同根だ。
記事要約
竹下総務会長は、国賓の要人が、自身の国の法律に則って同性婚したパートナーのことを、「日本国の伝統」に反するから宮中晩餐会への出席を拒否すべきだ、と述べたのである。
じつは、こうした「拒否案件」はすでに起こっている。2015年6月にA・カーステン・ダムスゴー駐日デンマーク大使が離任の挨拶のために宮中を訪問した際、同性婚相手のパートナーを外務省が配偶者として認めなかったため、パートナーを同伴して宮中で離任挨拶が叶わなかったというのだ(「サンデー毎日」2015年7月12日号/毎日新聞出版)。
宮内庁関係者は「外国で正式な婚姻関係にあるのであれば、同伴を認めてもいいのではないか」という議論があったことを明かしており、外務省の判断であった可能性が高いと見られる。
竹下総務会長は「日本国の伝統」などともち出すが、差別的な伝統よりも普遍的価値である人権を尊重するのが民主主義国家としては当たり前の話。だいたい、これは相手国で法的に認められている関係を認めないという、外交的にも大問題の対応だ。
実際、今年5月、ルクセンブルクのグザヴィエ・ベッテル首相は同性婚のパートナーであるゴーティエ・デストネ氏を伴ってNATO首脳会議に出席し、デストネ氏はメラニア夫人ら各国ファーストレディたちとともに行事に参加している。また今年3月には、伝統的には同性愛に厳しかったカトリック教会のローマ法王フランシスコも2人をカトリックの総本山バチカンに招待している。
しかも日本政府は、事実婚のパートナーに難色を示したり、同性婚のパートナーは認めない一方で、一夫多妻制の国の要人が第二夫人を伴った際は配偶者として認めて行事や式典に同行しているという(前出「サンデー毎日」)。外務省は、一夫多妻は「日本国の伝統」だとでも言うのだろうか。ならば、同性愛も法律婚外の恋人関係も、日本では古くから歴史を彩ってきた「伝統」と言うべきだろう。
竹下総務会長が問題視したオランド前大統領の事実婚パートナーだったヴァレリー・トリルベレール氏は、いかに美智子皇后が宮中晩餐会において偏見もなく接してくれたかを、自著のなかで明らかにしているからだ。
トリルベレール氏は2014年にオランドとの破局について綴った『Merci pour ce moment』でトリルベレール氏は、事実婚でファーストレディとなったことや仕事を辞めなかったことなどで偏見の目で見られつづけた苦悩を明かすなかで、〈最も思い出に残る国賓訪問〉として、2013年の日本における宮中晩餐会を挙げているという。
そこで振り返られているのは、美智子皇后の対応だ。
「天皇、皇后両陛下主催の晩さん会は、いまでも忘れがたい、魂を奪われるような最高の記憶として残っている。北フランス出身の貧しい私のような小娘が、皇后から『ミチコと呼んでください。私もファーストネームで呼ばせていただいていいですか』と言われようとは。私は『皇后さまとお呼びするしか失礼でできません』と言いました。皇后さまは私の立場を理解してくださいました」
竹下総務会長の話から想像するに、トリルベレール氏の宮中晩餐会出席を周囲が快く思っておらず、扱いをめぐって揉めていたことは、美智子皇后にも伝わっていたことだろう。しかし、美智子皇后はそうした事情で分け隔てることなく、親しみを込めて接した──。すばらしい外交と言わざるを得ないだろう。
しかも、トリルベレール氏はこうも記しているという。
「別れ際、皇后はカメラの放列の中を優しく抱擁してくださいました。(皇后の体に触れないという)プロトコールを守らなかったため、私は批判を浴びるものと覚悟した。しかしこの時はなかった」
実際、要人のパートナーが「魂を奪われるような最高の記憶」と呼ぶ思い出をつくり、フランスとの友好を深めたというのに、いまだに竹下総務会長はこのときのことをもち出して、同性婚パートナーの出席は反対などと言い出しているのだから。
ー中略ー
結局、竹下総務会長をはじめとする安倍政権は、「伝統」を騙った差別主義の肯定のために天皇・皇后を利用しているだけなのである。そして、実際のところ、こうした対応にもっとも胸を痛めているのは、言うまでもなく天皇・皇后なのではないだろうか。
(編集部)
日本人の象徴である天皇ご夫妻の行いこそ、リベラルであり平和主義の実行であり、良き日本人を体現されていることが救いだ。
最近の安倍政権とそのシンパたちが夢見る父権中心の封建社会復活は、どう考えても民主主義先進国には受け入れられない。ましてや日本を訪問する他国の代表に対して、自分たちの価値観を押し付けるなどとんでもない。慰安婦像撤去にしても同じだ。騒げば騒ぐだけ、国際社会に日本がどういう国かを宣伝し、慰安婦を国を挙げて虐待したことも頷ける頭ごなしの権力志向の差別主義政府であると知らしめるものだ。そういう政治家を自分達の代表に据えている日本国民の恥だ。
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