密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

『美術界を蝕む女性差別と性被害』を読んだ。

伊藤詩織さんの新著『裸で泳ぐ』が出され、日本アマゾンに注文。NYはともかくフロリダでは日本の新刊を購入することは不可能で、日本アマゾンは、しかも昨今は、円安で、送料分がドル建てだとカバーできてしまう。それでも一冊だと、送料が本の値段の倍以上になるのでこの際他にも、と思い、引っかかっていた『美術界を蝕む女性差別と性被害』も購入した。この他に、『13歳私を無くした私』と言うほんも注文した。

裸で泳ぐ
裸で泳ぐ
岩波書店
Digital Ebook Purchas
13歳、「私」をなくした私 性暴力と生きることのリアル (朝日文庫)
13歳、「私」をなくした私 性暴力と生きることのリアル (朝日文庫)
朝日新聞出版

以前は、1時間電車に乗ったり、1時間ドライブして、日本の書店に行って探したり
した。ただ不思議なことに、日本の書店(紀伊国屋とか三省堂)は、漫画と、食の本、雑誌類、そして保守的な本・安部礼賛本平積みにげんなりして、行くのをやめてしまった。


すごく政府の力が強いことを感じた。


話を戻すと、『美術界を蝕む女性差別と性被害』を読むと、美術界は悪の巣窟、ミソジニーの男たちの楽園、であることが書かれている。
確かに、今、ギャラリーストーカーと呼ばれている、おじさんたちは、ワタクシが日本にいた頃もたくさんいた。若い女性にとって、彼らの思い込みは、気持ち悪いと感じられ、鬱陶しいと苛立ちを覚え、度を越せば、恐怖を感じるだろう。気持ちはわかる。ただ、「誰かの助言」によりきちんと強く断れば、やめる、と言う結果が出ている。
コレクターになってくれる、コレクターである人に、アーチスト側も、忖度してしまうことが、状況を悪化させている。レイプの被害者に非がある的な発言に取られると困るのだが、
女性でアーチストを志すなら、自分の心に正直に、強く不屈であってほしい。ところがそれができないような社会構造に美術界もなってしまっているとしたら、吐き気がする。


日本の男性は、ともすれば、パーソナルを踏み越えてくる、鈍感で女性側のサインを無視する、こっちが相当起こるまで押してくる。押せばなんとかなると思っている節がある。つまり女性の心に関心がないからだ。これは日本全般で問題になることだ。被害者本人の苦しみはわかるが、媚びてしまえば、悪化する。


本気で怒っていいし、買ってくれなくなるからと言う思いで我慢して接待するのは、彼女らか一緒にして欲しくないと言うキャバ嬢と同等だ。そしてアーチストにそれを求める画廊は
女衒と同じ。どこの画廊だろう、、と考えてみた。そんな下品な人間が、作品を客に手渡せるのだろうか?こっちの方が大問題だ。まあ若い女性アーチストに横柄な口を聞く画廊関係者は結構いるが、ここまで酷い?私がいた頃からずいぶん劣化したものだ。


それでも、ギャラリーストーカーなど、可愛いものだ。この本も、ギャラリーストーカーは導入部である。第3章の、美術界の権力者による性被害、ここで書かれていることが事実なら、この、キューレター、批評家、美術館関係者らは、犯罪者だ。これはまさに伊藤詩織さんをレイプした山口敬之と同じ発想・思考・行動ををこなっている。裁判などに行かなくて
も、週刊誌ネタで糾弾できそうだ。


昔、かなり権力のある批評家氏が彼の人生で2度、文春に叩かれた。1度目どこかの海外の美術館キューレターの文章を翻訳して自分の批評に盗用した件。美術界に知れ渡り、大騒ぎされ、かなり干された。今まで批評をありがたがっていたアーチストも、やんわりお断り状態になり信用は地に落ちた。我が恩師O氏が救済のため、T美大に準教授としてよんで、生きながらえ、批評家として復活した。そして十数年がたち、今度は、海外の作品を盗作した画家を、大きく評価した(多分、何か大きな賞の選考に寄与した)件で、盛大に叩かれた。
彼は、文春に対し「君たちは私を2度も殺すのか」と言う言葉を投げかけた。
ハンサムで、ワイン愛好家でスタイリッシュな方だったが、絵と女性の質を並べて論じるようなところがあり、好きではなかったが、この件では結構心配した。
東京アートフェアのブースに来てくれて、新作のアプローチをとても評価して、この方向で続けて欲しいと言われた。元気なんだと、安心した。ただ失礼ながら、毒気が抜けたなぁと思ったいたら、その数日後亡くなったという報が届いた。傲る・気取る体質の人で、本人に非はなかったといえば嘘になるが、気の毒でもあった。


美術界の権力、というものが、昔と比べて、一極化しているのか?なんとなく、この権力は、Cool Japan とかそれに類する、政府とか電通とか、から与えらられたものなんじゃないか、という気がしている。傲り方と思考が軽いところがそう思わせる。そして若いアーチストもCool Japanに踊らされている感じがする。


最初、東京アートフェアは、美術界をひっくり返した。海外で大成功した村上隆氏と彼の周辺の人々により、旧体制の画廊の差別化が行われて。かつては、企画画廊でも、一部貸画廊をやっている大手の画廊はかなりあった。ワタクシも恥ずかしいことという認識もなく、美大を卒業したら、個展を著名画廊を借りてするというルートで、行った。その後すぐ企画画廊から声がかかり、この最初(実際は2度目)の古典は履歴から消している。
もとい、そういう名だたる画廊が、出展を弾かれた。これにより、企画画廊は企画に一本化し、画料も欧米に並び50%づつに改善された(かつては画廊70%)こうした力技ができたのも、サザビーズオークションで高値落札のインターナショナルアーチストの排出が大きい。波に乗って今まで日陰の存在だった、コンテンポラリーアートブームが起こった。
たくさんの新規参入の画廊ができ、ファッション企業のバックについた画廊が、チェルシーにスペースをオープンしたが、ここは、日本からのアーチスト向けの貸画廊をこっそりやっている(今もあるのかわからないが)日本のアーチスト食い物ビジネスが、アメリカに侵食してきて、腹立たしい思いがした。そもそも日本は芸術に興味がないけれど、儲かるアイテムとしてのアートには興味がある。Cool と認定し援助し、それが、軽い電通スタイルのキューレターや批評家に権力を与える。安倍政権下で、訳のわからない新興の横文字名前の会社が色々な企画で一者入札で受注を受ける、こういう構造が美術館・美術界に影響しているのではないかと感じられる。


そもそも芸術家は、保守的な考え、差別や人権弾圧を嫌い、抵抗する人間たちだ。
それを旨とするから、内面は女性蔑視でも、公にそれを出すのは恥だという意識くらいはある。ちょっときになるのが、「どうせ脱ぐから」といつて、モデルさんに着替えようの控え室を与えない。といいうことなんだが、学生時代はモデルさんに対する敬意を徹底して教えられていた。控え室は無理でも、衝立で仕切られたところに、休憩などは入っていただくことは当然。開始と終了時の挨拶もきちんと徹底していた。それが乱れているということか?
ちょっと信じがたい。教える側の意識が劣化しているのか?


第4章、教育現場で横行するハラスメント、この章の槍玉はまず、新歓コンパ。ワタクシの記憶では、嫌がるものを無理強いしていたということはなく、されたこともない。
脱ぎたい奴は脱ぎ、飲みたい奴はのめ。学祭は、学祭委員会のメンバーがタンカーを持って山道を見回った。山の中で冬であるためそこで寝ちゃうと投資してしまうからだ、はちゃめちゃだった。当時のZ大は開校当初からアメリカのスタジをを意識し、開放的で開かれた校風だったからか?セクハラ・パワハラで苦痛を覚えたことはない。
T美大の大学院時代、確かに”女の子”に対する軽口を叩く先生たちがいたが、こんな脅しとか嫌がらせはなかった。当時の女子学生は、もし、不見識なセクハラ発言をされれば、待ってましたとばかり反論する強者が多かった。
今、教える立場にいる日本の友人たちは共通してこういう、今の学生に、強い言葉は使えないという。「そんなんで自分の作品を追求できるか!!やめちまえ!!」などと言えば(子供の頃の、巨人の星スポ根影響?発言)、翌日には来なくなりやめてしまうので、壊れ物を扱うように接しているそうだ。褒めて育てるが鉄即らしい。


だからこの本が取材した、ふざけた大学はどこだ?と考えてしまう。絵画科はその辺、温厚だったのか? 彫刻科かな? モ*派の連中の中には確かに男尊女卑で、日本にいた頃、飲み屋で、大げんかになったことがある。コンテンポラリーアートやってて、ミソジニーかよ!!、彼らの組織ならありえる。


教授と生徒の”恋愛”も、当時は、先生の方がウブ、のように見えた。同級生の凄腕の美女は教授を誘惑して、助手の座をゲット、その後、さらっと彼氏と結婚、やるなぁ〜というのが同級生の感想だった。彼女は全く被害者には見えなかった。


その頃の牧歌的?状況から比べると、現在の日本全体にはびこる、ミソジニーと男尊女卑の影響が美術界も劣化させているように思う。


ただ本書にもおかしなところがあって、色々なレベルのことを飛び越して繋げ、ドラマを盛り上げている節がある。勧善懲悪姿勢がものすごい。これには違和感を感じる。
これをまともに読んでいると、美術界は伏魔殿、女性アーチストは身を捧げないと生きていけない、と信じ込んでしまう。


確かに日本の美術界は改善すべきところが多々ある。
NYCでの個展で、オーナーがNYTimsのレビューアー(美術担当の記事を書く人、とても権威がある)が来てるけれど、彼に話しかけてはいけないよ。といった。画廊側も話しかけないそうだ。そういう不文律が守られている。結構感心した。
日本は批評家や雑誌記者と仲良くなるのが鉄則のようだ。せめて画廊経由ならまだしも、直接話すなら、そこに卑しい心をもたらす。


大学という社会は、目上の男性の不見識な言葉を、いなしたり、あやしたりするスキルが必要で、特に、助手から助教授はの道は必須。車の送り迎えとか、フットワークが軽くないと務まらない。男女問わず忍耐と行動力の必要な大変な仕事だ。でもいずれ教授を目指すため、耐える。その大学がダメでも他の大学の口を推薦してもらえることもある。
今たくさんの友人知人顔を思い浮かべているが、誰一人、怒鳴ったり女性蔑視的態度で教えたりするイメージがわかない。セクハラはしそうな奴はいるが、脅して、とかそういうのはしないと思う。芸・美大の実技の先生たちは、アーチストである。少し夢見がちな人々ではある。ただ作品が売れているとは限らない。だから先生というしっかりした収入源を確保している。


画廊に紹介もしてくれることもあるが、画廊もシビアで、そうはトントン拍子に運ばない。
教授とはいえ、画廊を平身低頭させるには、相当な売れっ子でないとダメだ。
教授連は権威はあるが、権力はない、場合が多い。


第6章 歴史から消えた女性芸術家 というのが、こういうのは、例えば、公民権運動のような、女性の権利を確立する戦いは、ずっとつずいている。そした勝ち取った部分もある。
アメリカのアートにおいて、人種に由来するアート、ジェンダーに由来するアートは多いし、力強い。みんな自己のアイデンティティーをかけて戦っている。


抑圧と抵抗はアートのエネルギーの源泉だ。日本にはマグマのような怒りがストレスが溜まっていて、ジェンダーアートのエネルギーの源泉がある。それを恐れず、叩きつけるべきアーチストたちが、男性の言葉に一喜一憂するのは、どうかと思う。


この本を読んで、ハラスメントという言葉のアレルギーになった。
ハラスメントという言葉でくくること、また多様に分類が増え続けていくこと、そうすることで、認知され問題は解決するのなら、増殖する**ハラスメントを作り出せばいいのだが、だんだん焦点がぼやけてくるように感じる。
徒弟制の名残もハラスメントと指摘される。ただ工芸部門はどうしても、技の伝承が必要で、うぬを言わさないトレーニングは必要と思う。これをハラスメントにするのはどうかと思う。法の整備が必要という指摘もされている。アメリカでは、展覧会のたびに、契約書、同意書にサインをする。あとでトラブルを防ぐためだ。こう言うのはいい、ストレスがない。これは慣習化すべきと思う。
それから、展覧会や、画廊へのアプローチが人間関係を経て行われているような現状をやめて、Call For Artist を徹底する。公募形式は変にストレスがかからず、自分のペースで製作でき、可能性を見出せるシステムだ。アメリカのアーチストは発表の場を求めて、みんな積極的に公募・助成金を探す。選考過程は透明性が重視される。今申し込んでいる助成金は、作品の技術、主張、芸術性などで、基金以外から招いた複数の専門家により点数が与えられその合計で選考される。その後、スタジオ訪問ということになるだろう。
コロナで外との関係を閉じてしまって久しいので、リハビリのつもりで、助成金の公募を申し込んだ。ダメならまた来年、と思うと気が楽だ。


ワタクシの話はさておき、昭和以上に、男性に権力を持たせ、自分の力に酔いしれるバカを作り出し、女性アーチストを怖がりで従順に飼い慣らしていることが事実なら、日本のアートはCoolな見かけの広告媒体に使割れるツールに成り下がる。まあ、レンブラントも宮廷画家だった、という安倍自民党の広告に協力した、有名なイラストレーター氏がいたが、彼の心は幸せだろうか? プロレタリアアートは好きではないが、その心根は尊敬できる。権力におもねらない貧乏芸術家も必要だ。


この本によると、各大学でコンプライアンス室の設置や、ハラスメント防止団体などが作られているそうだ。ずいぶん進歩しているんだな。と感じた。
ともあれ、このひどい状況をはねのけ、日本から多くのパワフルな女性アーチストが生まれるとこに期待している。


ああ長くなったのにまとまらない。思い入れありすぎるとダメだね。すみません。


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