クルーグマン教授のオフレコ拒否は当然、国際社会の常識を理解する上の教訓とすべき
安倍首相赤っ恥 クルーグマン教授が極秘会合の中身を暴露
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/178338/1
安倍首相が増税延期の“お墨付き”を得ようとして開いた「国際金融経済分析会合」。マスコミ取材は冒頭のみの非公開会合だったのに、今月22日の第3回会合に招かれたノーベル賞学者のクルーグマン・ニューヨーク市立大教授が詳細な英文の議事録をネットにアップしてしまったのだ。
そもそも、相手から一方的にオフレコで、極秘でといわれても、それに対する納得承認、契約、法的罰則、などがない場合、それは単に日本政府側の要望であり、それに寄って教授自身に損なわれるのも(信条、名誉、なども)があれば、言うことを聞く必要はないだろう。
後半は政府側との討議になったが、「わざわざ米国から呼んでおいて、日本政府の質問はこの程度?」と思わざるを得ない次元の低い質問がやたら目立つ。
これは日本の取材記事のインタビュアーにも見られるが、インタビュアーが言って欲しい事、に何度も水を向けるが、米国、あるいは欧州も、自分の言う事に責任を持つ観点から、相手の臨みに合わせるということは、殆どない。
彼らの目的が、自分の意見の"Endorse-支持、裏書き、保障”であって、決して相手の意見を参考に、新たに何かを発案する、真摯な問題点に対するアドバイス治して修正するために行われていないからだ。
こうした、できレースは(民主主義国家の中で)日本特有のものである事は、報道記者が安倍首相への質問内容を官邸に報告している事が、海外で驚くべきニュースであったでもわかる。
〈Aftermath(no,I don't enjoy this sort of thing)=余波(ノー、私はこういうのは好きじゃない)〉
シグマ・キャピタルのチーフエコノミスト、田代秀敏氏はこうみる。
「大勢の記者に囲まれた写真を載せたツイッターは、『こんなの嫌だなあ、私は芸能人じゃなく経済学者なのに』という気持ちの表れなのではないでしょうか。世界的に権威のある学者なのですから、政府は本来なら記者会見を開き提言を表明してもらうべきで、配慮が足りません。
クルーグマン教授はアメリカ人、別に自分が経済学者としての扱いに不満とか、格とか、そういうこというよりも、自分の研究、意見に興味を向けるのではなく、名前のみEndorseの材料に利用されていると感じたから、”no,I don't enjoy this sort of thing”ではなかったかと思う。日本のように席順や名前の順番でを重視しないし、そんな事で腹を立てたりしたら、かえって恥ずかしい。記者に囲まれていても、記者会見でも一緒、自分を形だけを利用される事への嫌悪であり、学者としての自説に対するこだわりと影響力への責任感もあるだろう。
議事録を読むと、クルーグマン教授と安倍首相らとの議論は噛み合っていない。教授は『生産年齢人口が毎年1%ずつ減っていく中で、需要も減る。この大問題に日本はどう向き合うのか』などの重要な提言をしています。しかし安倍首相らは、教授の提言を聞きたいというよりも、消費増税の判断材料にするなど、政権にとって都合のいい話をつまみ食いしようとしている。クルーグマン教授は、話をつまみ食いされたくないので、自ら議事録を全文公開したのかもしれませんね」
大体国内の学者とも、いや論理的に話し合おうとする誰とも話の噛み合ない安倍総理。
通訳が気を利かせて、いいように通訳しているのだろうが、それなら、クルーグマン教授ではなく、クルーグマン教授と名札を付けた外務省の官僚で十分。
相手に対する尊敬の何と言うのであれば、記者会見云々ではなく、出席閣僚前任が教授の論文、著作を読み、その上でお招きするのが、本当の意味での歓迎であり尊敬の表し方だろう。ウィキペディアに寄ると、非常に学問的にも潔癖で妥協を嫌う、かなり反骨な人らしい。リベラル(共和党不支持だろ)で、時の権力者や経済学の先人たちそして通説をバッサリ切り捨てる容赦ない批判姿勢は、激しい反発や非難を受けることが常だったとされる。自身について、外交・貿易交渉については専門ではないとしており、特に政治的な側面は分かっているつもりはないと述べている。
”自身について、外交・貿易交渉については専門ではないとしている”教授に、安倍首相は「これはオフレコで」「ドイツは財政出動の余地が最も大きい」として、「訪独の際に財政出動を説得したいが、いい知恵はないか?」と聞いている.当然 教授は)気候政策などを挙げた上で、)「もっといい提案ができればよいのですが、私は外交の専門家ではないので……」と答えている。
医者と聞くと、何が専門かも関係なく、自分の健康相談を持ちかけてしまう一般人レベルの質問だ。たぶん、教授について、ウィキペディアさへ、読んでいないだろう。(読んでいたら、こんな質問はでないし、教授が安倍政権に得になるような、発言はしない人であると解りそうなものだし)
”ノーベル賞受賞のアメリカ学者”と言うだけで、呼ばれた教授も、日本政府の幼稚さ、民度の低さに唖然としたことだろう。
今回の教授の対応は、日本で通用する、ちょっと名前を貸していただければ、、、的な、本質は興味なく、イメージだけで物事を動かしてゆく、曖昧な、いい加減さに対する当然の対応だと思う。あるいは、そういう体質に、批判の一撃? 海外の少なくとも自分の仕事、思想、研究、哲学にポリシーを持っている人たちには、こういう日本のやり方は、全く理解も、賛同もされないだろう。
日本国内で、仕事、思想、研究、哲学にポリシーを持っている人たちは、たいした事でなければ、”事を荒立てないように”最後まで主張する事をしない。日本社会は、下手に波風を立てる事を嫌う。強い自己主張は自分勝手と同義語、”空気読めよ”と非難が来る。
アメリカ人は概ね、”事を荒立てないように”という対応を採用しない。政治でもビジネスでも、夫婦、親子、パートナー間でも。とことん話し合う事が、解決の道だとおもっているからだ。
だから、目に見えない空気なんて読まない。もしこちらが、読んで欲しいと思えば、まず、空気を読むとはなにかを、文化社会的に空気を読む意義を説明し、理解をえて、その上で個々人の心情と判断で読む事の必要性を納得すれば、読むかも?しれない。
面白い文化論になる可能性もあるが、そういう説明を出来ないから空気読め、ですませている、というのが、”空気読め”の本質かな?
今回の例はこういう翻訳の出来ない空気、日本では当然まかり通る一国の政府首脳が、イメージだけで本質には言及しない、論理的議論を否定するなんちゃって馴れ合い会議をし、そこによせばいいのに、学問に潔癖で妥協を嫌う、反骨なリベラルのアメリカ人経済学者を呼ぶことの、ちぐはぐさ、危なさを露呈し、こうした日本の馴れ合い体質は、個人の大事な部分に抵触する事柄には妥協をしないアメリカ人は、そして国際社会にも通用しないと言ういい教訓だったのではないか。
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