新本の矢−3世代同居、”死ぬまでお役に立ちましょう” が美しい?
新本の矢、3世代同居を提唱。一時代前、高度成長で働く現役世代を,祖父母が支えた。これが家族協力の形であり、子供たちも,家にはおばあちゃん、おじいちゃんがいるのが当たり前だった。核家族化が進み、独居老人、孤独死、子育てと仕事の両立の難しさなど,ネガティブな現象が表立って社会問題になっている。しかし、本当に、老人は家にいて働く子供の家事を支え,孫の面倒を見るべきなのか?本当に自分が動けなくなるまで,家族のサポートに働くことが、本人の幸せなのか?それを推進する事が政治のやる事なのか?かたや、現役世代も、住居問題、家賃軽減、家事育児の軽減、しかし実の親子でも違う価値観を義理の間柄で共有するには、やはり大変なストレスと努力がいる。そして,全家族で両親の介護全負担?
家族の絆は美しい言葉だが,近すぎれば縛り付け合い、単に義務の押し付けにしかならない。国民が安定した住居を持ち(住宅問題)、収入を得(貧困、働き過ぎ、消費税増額)、引退後は働いた分自分の時間を持ち楽しんで暮らす(年金問題)、介護の行政地域によるサポート(社会保障、医療介護問題)学業以外の子供たちの課外活動の行政主導の充実、雇用者(大企業)の育児、保育所社内設置。全て,政府が国民の為に行わなくてはならないことを、家族の絆,助け合いの美名で国民に押し付けている。
家族とはいへ、皆一人の独立した人間で、一度しかない人生、幸運にも命の危険にさらされない環境に生まれ、まじめに,正直に働き税金を納め、個人的な義務を果たしてきたら、人生のハーベスト(収穫期)を味わう権利がある。アメリカは老人が元気だ。80才90、100才でも、一人で暮らす。買い物が難しくなれば、ソーシャルサービスの人とか、近所に住む家族、ときに近所の人、が,スーパーにつれていったり、ちょっとした買い物をしてきたりする。サンクスギビング、クリスマス、誕生日,機会のあるごとに,子供や孫の訪問を受け、また出かけてゆく。世話をされすぎる事を嫌う。自己の尊厳を何より大切にする。そして他人の尊厳も踏みこまない。孫の面倒を見る事は楽しみであって,義務ではないし,両親も子供は自分たちの責任と自覚している。
”スープの冷めない距離”というのをよく母が口にしていた。”Distance that does not cool the soup”イギリス『The Social medicine of oldage』1948年J.シェルドン著だそうで、距離にして5分くらい?(なるほどイギリスなら,納得。アメリカでは5分-車でも、は無理かも)一緒に住んでいないけれど,行き来できるほどよい距離が、いい関係をつくると云う意味なんだろう。独立した子供と両親の関係を表わすとき、親と世帯を別に構えても気軽に行き来の距離も大切といっている。私は心の距離,余裕だと思う。そしてその心を保つには,安定した独立した生活が持てていることが必要だ。たとえ親子でも,終止お互い我慢し合い協調しあいながら同居(しかも,各人プライベバシーを保てるスペースを十分取る事は日本では難しい)は、もう今の時代では苦痛の部分が大きくなる。しかも期間は死ぬまで、、。
広い家に住み、お母さんに大事にされて、結婚後は妻に手渡され、妻が独立思考なら、またお母さんに大事にしてもらえる恵まれた男性の発想だ。国の怠惰を,日本人の弱い修身ポロパガンダで誤摩化し押し付けている。たいした経済大国だ。美しい国とは,個々人が自由で、希望に向けて努力できる事を信じられる国であり、特に,子供と,老人が元気で幸せな国の事だ。つまらない修身を上から押し付ける政策も、憲法改正もこれを実現することはできない。
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