密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

死を前提のサービスを求める”国”とは何か?

稲田防衛大臣のもと、国のために命を投げ出す行為が賛美、英霊になりたい自殺志願者殺到?などというわけにはいかないだろう。ネットで強気の軍国賛美の人たちの何人が、本当に国のために死ね、と言われて喜んで戦地に赴くのか疑問である。


「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」葉隠の記述の中の有名な一節『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。(ウィキペディア)
葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈、これはこの一節だけ抜き出して太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が事実使われた。


そういえば、花と散るとやはり特攻・玉砕に使われた散華も本来お釈迦様の歩く足者に花を巻いた事を言うらしい。都合のいい部分をぬきだして、曲解し、プロパガンダに使う、どうも日本の軍国主義、全体主義者は、イメージ戦略が上手なようだ。



だいたい自衛隊の新しいエンブレムの日本刀を見ても、自衛隊トップはこの言葉がまだ頭の上にこびりついて、武士道ロマンに萌えていることを表している。



自衛隊の海外派遣に赴く隊員は、悲壮感年に覚悟を漂わせて赴く。もちろん死と隣り合わせの地に派遣されるのだから、当然なのだが、みんな任務のためには死んでも構わないと納得して出かけなくてはならない風もある。




アメリカでは、大前提として誰も自分がこの”サービス”で死ぬということを受け入れていない(兵役は、ステイツ・合衆国へのサービスと表現されている)。非常にプロの特殊部隊や、スパイはどうだか知らないが、一般の兵士は、命をかけない。かけろとも言われない。自分が死にそうなら、降伏して捕虜になれ。誰であろうと、国に奉仕して従軍している人間は、窮地に陥ったら、アメリカ軍は必ず助ける、という大前提がある。だから国を信頼して戦うし、必ず生きて帰って、恋人に、家族に会う、そう思って勤めている。



危険な地に赴くなら、”必ず生きて帰る”を強く覚悟して出かけて欲しい。”国のために命を懸けろ”というのは、国のためにならなければ、見捨てる、犠牲になれ、と言っているに等しい。安倍首相「日本の青年も血を流すことによって、日米が初めて対等になる』冗談じぁない。根本姿勢が違うんだよ!!!一兵卒の命なんてどうでもいい、国のために死ねという政府に送り出される自衛隊は、周囲の圧力で追い込まれた、特攻・玉砕と一緒。



稲田氏「戦争は人間の霊魂進化にとっての最高の宗教儀式」こんな狂人が防衛大臣。
記者会見で、持説のご披露は避けたものの、すでに、中国、韓国はこの人事にナーバスに。東アジアの平和的バランスをなんとか崩そうと画策する安倍政権。


国のために血を流す、国のために死ぬ。今の派兵は、日本の国際社会での発言権アップ、地位の獲得のため、と安倍総理は考えている。しかし、多くの葛藤や、困難の中で、難民受け入れを続けているドイツの方が、歴史修正主義で、弱者排斥、自国の兵士、いや海外の邦人の命も、場合によっては、どうでもいい、プチ独裁全体主義国の100倍も評価される、いや比べ物にならない。


アメリカでは、一番のヒーローは消防士だ。警察官も、兵士もヒーローと呼ばれる場合もあるが、やはり消防士。なぜなら、彼らは人を命がけで助ける、勇敢で屈強な精神と、チームワークを持つ人たちだからだ。何より彼らは人を殺さない。


自衛隊員も災害救助で、人々を助ける方が誇りを持てるだろう。危険でもやりがい、喜びを感じられる仕事と思えるだろう。

急迫不正の侵害でもないのに、人を殺さなければならないなんて、どう考えても納得ができるはずがない。国のために血を流す、命をかける。簡単に言ってくれるな。彼らの言う”国”とはただのイメージ、形のない言葉だけのもの。国のために命を懸けろというなら、まず、国とは何かの共通認識を国民的議論で話し合わなければならない。


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