密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

『飲み会断らぬ女』は日本における女性の社会進出の足ががりだった。

森喜朗発言で日本の根強い女性蔑視に感覚が、問題視されている。
後任の野田聖子氏に対し、6年前の、宴会でのハメ外しスクープを持ち出して、『セクハラ』と攻め立てている。野田聖子氏の適性がどうか、議員としてどうかは置いておいて、
この騒ぎ方自体がセクハラではないかと思う。


一部の『女がセクハラと騒いで面白くない』男性(女性専用車両の乗り込み抗議したケ*の穴の小さい人たちのように)にとって、女だってやってる的な言い方をしたいのはよくわかるが、原則的に強姦・強制性行の加害者は圧倒的に男性が多い、そういう状況の下、男性の不用意な接触は女性(あるいはそれに類する立場の人)に恐怖心と不快感を与える。アメリカ社会において、ハグやキスは女性から、また女性がサインを出してから行われる。酔っ払いキス魔とかした野田聖子氏の行動は、アメリカでは、迷惑な人であり、困った人(アメリカ人は、公共の場で酔っ払うことを良しとしない)であるが、”セクハラ”とは呼び難いかもしれない。


しかも6年も前にバッシングされ、キスされた高橋選手は、訴えを起こしていない。この高橋選手の態度こそ、女性の(無茶な)行動を受け止める優しさを旨とするジェントルマンの態度だろう。


これを男性が、特に年上の男性が若い女性にしたら、ど真ん中の『セクハラ』であり、状況によっては犯罪になる。「不公平だ!!」という声が上がりそうだが、不快感・恐怖心の度合いが違う。時として、その後、導き出される行為と結果が違う。だから、男性の乱行は
「テヘヘ」では済ませられない(でも強い性嗜好が目的の行為でない場合、本人がシラフに返って平身低頭、ごめんなさいと謝れば、許しても会えるケースが男性でも多いのではないか。しかし、開き直りや、計画的、継続的セクハラの場合は、本人も謝らないだろうし、それは「テヘヘ」では済ませられない、済ましてはいけない。)


女性がパワハラ・セクハラとみなされるケースは、彼女が部下の男性を私室(密室)に呼び出し、性的接触を行う場合である。また、公共の場で、辱めるような扱いを、敢えて行い続ければ、パワハラ・セクハラとみなされる(第三者的検証が必要)


男性であれば、6年も前に、たとえ”性行為を期待しての一方的接触”をしたとしても、その時謝罪していれば、こうは話題に上らないのではないかと思う。


同じように、菅氏の”ご子息”に接待された官僚の方々の中で、特別扱いの山田真貴子内閣広報官。女性のキャリアは希少と菅氏がかばってくれた。しかしこれも変な話だ。やったことに男女は関係なく、きちんと責任を取らせるべきだ。


また逆に、「飲み会を絶対に断らない女としてやってきた」が騒がれ、立憲民主党の黒岩宇洋氏は、公務員は会食していい相手かどうかについて十分気を付ける必要があるとして、「断らない女」発言には「倫理観の欠如があった」と批判した。そうだが、女性の社会進出の状況をすっ飛ばして、倫理観の欠如は言い過ぎだろう。


かつて、飲み会は男性の場だった。そこの参入できるのは、芸者さんやホステスさんのような、男性にサービスする立場の女性たちだった。彼らがいずれ妻にしたい・嫁にしたい”良家の子女”は、公共の場で酒など飲まず、仕事を終えたらまっすぐ家に帰るのを良しとされてきた。お酒を飲むことさえ、夫の許容のもとというのが当たり前だった。
女性が、”飲み会に参加する”ということが、男性社会に参入する、男性と対等に渡り合える
ことの象徴であった時代があるのだ。 だから、山田広報官が「飲み会を絶対に断らない女」と辞任して、自身の動画メッセージで発言したのは、それなりの後輩への啓発と考えたとしても無理がない。



だが、女性にとって、飲み会の参入は、時にセクハラの嵐に耐え、心ない軽蔑な発言に耐え、自己の存在を、あなたがたと対等だ、と認識させる、あるいは名前を覚えられ好感を持たれ人間関係に参入できるという対価のためのものだった。 中には飲み会で喜んで仲居役に徹する女性たちもいたが、かつて『飲み会を断らない女』は、男性社会に踏み込んでゆく”勇気と志”を持った女だった。


リテラのこのような記述が気になった。(全体記事は大胸納得のいくものだったが 菅首相が山田内閣広報官を処分しない理由に「女性」を強調! 女性問題を悪用し「飲み会を断らない」不正官僚を守る態度こそ性差別だ|LITERA/リテラ
そもそも、山田内閣広報官は「イベントやプロジェクトに誘われたら絶対に断らない。飲み会も断らない。断る人は二度と誘われない。出会うチャンスを愚直に広げてほしい」などと発言していたことも問題になっているが、この発言自体、家事や子育てを押し付けられながら仕事を抱える女性たちが男社会の組織内で「飲み会に参加しない」などという理由で阻害されてきたことをまったく理解しない、あ然とするようなものだ。しかし、こうした「わきまえた女」だからこそ、菅首相は山田氏を高く評価してきたのだろう。


日本社会では、”わきまえた”人間が出世しやすい。その辺は、特に男女の区別はない。
そもそも、育児子育て以前に、結婚を諦めて、男性社会に切り込んでいった女性たちがいた。山田氏のプライベートは知らないが、彼女の夫は、ある意味彼女の活動のサポートをよくする人であったのだろう。仕事をしながら、結婚生活を営み育児をするということは、その結婚生活を構成する両者の問題で、飲み会で人脈を得る野心がある女性は、それを許容し応援できる男性を伴侶に選ぶべきだだろう。これは大事な要素だ。婚活パーティーでその自身の人生設計のポリシーを曲げた結婚を選び、”家事や子育てを押し付けられながら仕事を抱える”女性となっているのが、自分の選択でないと100%言える人は少ない。
また、不幸にして、家庭内暴力などで離婚し、シングルマザーになってしまった人にとっては、”男社会の組織内で「飲み会に参加しない」などという理由で阻害されてきた”などという状況は、別世界で、もっと別の問題に直面している。


こういうメディアの女性擁護の書き振りは鼻につく。


たとえ山田氏が”相当嫌な女ープラダをはいた悪魔”であったとしても、それも彼女が”努力”と”野心”で成し得たことで、一般化できることではないし、彼女のようになりたい人は、彼女の言葉を参考にすべき、ただそれだけだ。
それと、彼女が地位と権力のおごり、彼女の努力以上の不当な果実を貪る権利があると考えたのなら大間違えだ。


最近は、飲み会拒否の若手も多くいると聞く。ノミハラなんて言葉もあるようだ。
仕事後の、職場の呑み繋がりを重要としてきた日本社会が、欧米式の個人主義、飲んだり食べたりは自分のプライベートで、とはっきり言える社会になっているのだろうか。
日本の場合チョツト違う気がするが、そんなかか、「若い方々にとって人脈をつくるのは大変重要だと思って申し上げた」山田広報官の言い分は彼女の経験則に対し説得力のあるものだ。


ただし、公務員として飲食に関する倫理規定をきちんとしていなかった点は責められるべきで、責任ある役職についていたこと、行政を歪めたことを鑑みて、辞任するなりなんなり、潔く責任を取ったほうがいい。


菅首相は昨日24日、記者団の囲み取材の際、山田氏の処遇についてこう述べた。「やはり女性の広報官として期待しておりますので、そのまま専念してほしい。私はこういうふうに思っています」
 山田氏が問題となっているのは、総務審議官という立場でありながら明白な利害関係者から接待を受けていたことであって、男性か女性かといった性別はまったく関係ない。なのに「女性の広報官として期待しておりますので」などと女性であることをわざわざ強調し、持ち出す──。


ようするに、森喜朗氏の性差別発言に端を発して注目が集まるようになった「女性登用の少なさ」の問題を、菅首相は「悪用」し、処分をおこなわないことの理由にしたのである。
 いま女性たちが声をあげ、是正を求めているのは、性差別的な社会構造に基づいた男女格差の解消であり、意思決定の場に女性が参加できるようになることだ。なのに、それをよりにもよって官僚の汚職問題に利用し、罷免しなかった理由として「女性として期待している」と言う。これは、まさしくいま声をあげている女性たちをも冒涜する暴言ではないか。(リテラ)


女性だからと庇うのも、女性だからと非難するのも(ましてや某紙のように、可愛い顔でのし上がったジジイ殺しなどという書きぶりは、セクハラそのものだ)どちらも女性を馬鹿にしていることに他ならない。


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