密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

大学講座で苛虐的エロスの開示 ”誰も傷つけない表現”は表現として成り立たない

美術家会田誠氏の京都造形芸術大学での公開講座で、訴訟騒ぎになっているようだ。
会田氏は傑出して描写力に優れ、また攻撃的題材で表現するアーティストだ。
個人的には彼の女性に対する苛虐的な絵画は受け入れがたい。この視点は男性優位社会に立脚する、女性を物化することで支配的・性的満足を得る日本独特のエロスであり(写真家荒木 経惟のSN的縛りのヌード像などアメリカの写真ファンなどで注目を集めた時期もあった)そこになんのメッセージがあるのかよくわからない。


会田氏の主張「『モデルをズリネタに』云々という文字がありましたが、おそらくこういう文脈で出てきたものです。美大油絵科の学生としてみんなとヌードモデルを描いていた時に、はたと気づいた。裸の女性が真ん中にいて、たくさんの男たちが(当時美大は男子学生が多かった)それを凝視している」
「そして言外に欲情は禁じられてる。これってなんなんだ? 何ゆえなんだ? 歴史的経緯は? 美術・芸術の領域(具体的には芸大上野キャンパス)から一歩出た世間は、まったく違う風か吹いているじゃないか? どっちが嘘をついているんだ? どっちが病的なんだ? そういう問いです」


目の前に女性が裸でいれば欲情して当たり前、というのがそもそも、日本男児の欲情強迫観念。レイプされた女性が薄着でいたから悪い的な理屈の源泉である。欲情と心情をきちんと結びつけるコントロールは人間としてとても大切で、男は欲情はするものだ、仕方ないで正当化するのは、如何なものか。そういう考えのもと、兵隊の性処理用に慰安婦制度を国家が考え出してしまう男根優位主義国家を日本は形成してしまった。


講義で公開された、涙を流した少女がレイプされた絵や、全裸の女性が排せつしている絵
四肢を切断された女性、等が、男性で、かつ彼自身であれば、大いに芸術として評価できるだろうが、残念なことだ。


主観的な感想はさておき、今回のことが、”誰も傷つけない表現”なるものを要求される契機になることは大いに危惧する。
善意で道沿いにバラを植えた人がいて、近所の人が子供が棘で怪我をする年に訴え、撤去された、というニュースを、日本のある面の象徴として、強く記憶に残っている。
人を傷つけない表現の行使は、バラの撤去に似ている。その行き着く先は、多様性を認めない、みんなが同じ社会・閉塞監視社会だ。絶対そんなところに居たくない。


誰も傷つけない表現とは、表現しないことだ。これはすべての表現の否定となりかねないし、個性の否定にすら繋がる。


ただ、相手に痛みを与えるかもしれない題材、表現を行う場合、表現をする側も相応の痛み、傷を負うべきだろうと思っている。その表現者の側の痛みが感じられない作品は、個人的に認めることはできない。


とはいえ、今回は大学側の対応に問題があったとする見解があるようだが、そのとうりだと思う。映画にもX指定というのがある。


前略
東京大大学院の加治屋健司准教授は「大学の対応の問題が大きいと思った」と学校側の姿勢に言及。「ただ、これを機に『事前の警告』の問題が日本でももっと議論されるとよいと思った」としたうえで、「英語ではTrigger Warningsと呼ばれる、この事前の警告は、以前同僚との会話で話題に出て以来、気になっていた」としていた。


ほかにも「確かなのは、この民事訴訟は、個人原告vs学校法人瓜生山学園であって、会田誠ほか講師陣は訴外という事実は念頭に置くべきでしょう」と論じる声や、「弁護士ドットコムでも『講座の運営方法や告知の仕方、その後の対応について責任を追及していく』とある。そこを読み落とすと、たぶん本質から逸れてしまうと思う」と冷静にみる向きもあった。


16世紀ドイツにグリューネバルトという画家がいた。彼の描いたキリスト磔刑は、緑色に腐敗し、肌が破れ血や膿が流れ出すリアルな表現で、しかし誰もそうしたキルスト像を描くものはいなかった(神の子だし)。そして、それはハンセン病を患う人々の病院に飾られていた。自分の体が崩れる病に苦しむ人たちはその絵を見て、キリストと共にある自分を感じ慰められたという。表現とはそうした側面を持つものだ。


痛みを共有することができれば、表現が残酷であっても、傷つくことはない。だから作り手は、見る側に対しての共感のメッセージが必要だと思う。日本はただでさえ、花鳥風月。美人画、可愛い、癒し系などが、受け入れられる構造になっていて、これは非常に寂しいものがある。こうした美術界を背景に、お行儀良い倫理、心地よさ、アカデミズム、権威主義などに対して、ショックアートを発信したい気持ちはわかる気がする。


会田氏のモチベーションは攻撃と破壊であり、それは一連の彼の周辺のアーチストに共有されているように感じる。既成概念に対する怒りを表現の動機にすることも、大切なことである。ただ、その方法として、女性を痛めつけることがどうして必要なのか、わからない。暗いエロスの世界に見せられるアートもあっていい。しかし、アンダーグラウンドのそうした苛虐ポルノを芸術として跋扈させることが体制への反逆というのなら、今の日本の現状で、そんな反逆やってる場合か?という気もしないではない。


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