密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

議論下手から議論嫌いへ、イージーゴーイングみんな仲良し民主主義

久々になった日本人の友人とチェルシーで飲んだのだが、注意していた政治話題で、ニアミス。彼女は”安倍さんよくやってる派””海外で評価が高い派”である。NYに住んでいてアーチストであるのに、珍しい人であるが、古い付き合いで、言い合いまではいかないように止めるのが常であったのだが、どうも、いつになく、彼女の論調が激しく、かなりの怒りもにじませている。よくよく聞いてみると、日本に帰った時に、アーチスト仲間から、激烈に非難されたらしい。彼女いわく”多勢に無勢”なので黙ったそうだが、そのストレスが、ワタクシに、、、つくづく損な役回りだ。


中国脅威論(中国恐怖症)と、世界に支持されて日本を守る安倍さん、反対ばかりする”サヨク”と、ほとんど”ネトウヨ”?とうっかり口にしてしまったら、激烈に怒らせてしまった。いくつかのファクトを話してみたが、最終的に、馬鹿にされ頭ごなしに、多勢に無勢で言われ続けた怒りと悔しさが、冷静な事象を拒む? 日本のアーチスト諸氏が安倍政権に危機感を表明していると聞いて、安心もしたが、しかし、彼らも、日本にはびこる同調圧力と言えるやり方をしてしまうのは、如何なものか。その結果、理屈じゃないよ!!という怒りと拒絶を生んでしまう。それではどれだけ”論破”しても自己満足で溝は埋まらない。


我々より上の世代の日本人は”議論下手”である。アメリカで討論番組を見ていると、こんな危ないメンツで大げんか必死!という対決がある。例えば、最近では、リアルタイム・ビル・マー(当ブログで度々登場の番組、詳しくは、Real Time with Bill Maher ・コメディアンのナイフー社会政治批判 - 密接な関係にある他国からをみてください)スティーブン・バノンが登場。よくでたなぁ!!と唖然。実祭彼が誰かと対話するのを見るのも初めてで、ビルのかなり歯に衣を着せぬ意見を、笑顔で受け答えるバノンは知的で魅力的ですらあった。ビルも終始笑顔で、グサグサ刺す。アメリカは激昂したり大声を出したりしたら負け。日本の朝まで生テレビ(それが嫌でみなくなったが、少しは変わったのだろうか?)など、とても醜い感情爆発オヤジショーにしか見えない。だから、若い人たちが、議論は醜い、言い争うは避けたい、そう思うのが当然だろうと思う。彼らの議論はカッコよくないし、大人の威厳尊厳も感じられない。


そういう切り口で、とても興味を惹かれた、成蹊大学教授・野口雅弘氏(49)が、若者が「コミュニケーション能力(コミュ力)」を重視するばかりに「野党嫌い」が進んでいるからではないかと分析した記事。(特に興味を引いた要点だけを転載しますが、全文を読むと政治分析もあるので読んでください。)



野党の支持率が低い、「野党嫌い」の背景に、若者が「コミュ力」を重視している事実がある。コミュ力を大切にし、波風の立たない関係を優先していれば、当然、野党の行う批判や対立を作り出す姿勢は、嫌悪の対象になる。


「反対」することへの嫌悪感は、どうして生まれてくるのか?


 10年前に出た菅野仁さんの「友だち幻想」が、最近また売れているそうです。コミュニケーションの軋轢を避ける「同調圧力」を問題にした本ですが、こうした傾向は比較的若い世代に広く共有されていて、それが「反対」することを難しくしているのではないでしょうか。そして何より私たち大人の側が、それを求めているのではないでしょうか。例えば就職活動で集団討論をしますが、そこでは意見は言うけれど、ちゃんと空気を読んで、コミュニケーションが取れる人を企業側は求める。大学のアクティブラーニングで、学生に話をさせてグループワークをして、という時は、「コミュ力」の高い人がいてくれないと授業が回らないので、教員はそういう人を欲する。学生にすれば、「コミュ力」があれば就職でも大学でも有利になるので、「反対」することへの抵抗感が知らず知らずのうちにどんどん高まっていってしまう。


考えてみると、日本の学校教育で先生が教えることって、「みんな仲良し民主主義」ですよね。そこにオポジション(対抗勢力・対抗関係)は一切ないし、それがいいとされている。私はドイツに留学していたのですが、ドイツの学校では先生も党派性を明らかにするし、異なる党派的立場を前提にして教室で議論するのが当たり前です。これに対して日本では、「中立・公正」が掲げられ、「思いやり」が強調されることもあり、党派性との付き合い方について学ぶ機会がほとんどありません。


つまり、議論下手の大人たちをみて、議論嫌いになった若い世代。それをいいことに、無思考の仲良し同調圧力で、社会に便利な、言いなり国民を作り上げてきた自民党と大企業の密かな企み?は成功してきている。


彼らの『コミュ』は日本国内で波風を立てないコミュニケーション能力であり、これは国際社会では、全く通用しない。怒りや大声で相手を威嚇したり、キレて、論理性が無茶苦茶になったり、相手の言うことを冷静に理解できず、自分の解釈だけで物事を進めたり、そんな人間は相手にされない(お金をばら撒けば丁寧にはしてもらえるだ追うけど)、つまりコミュニケーション能力最低なのだ。


対話、議論でお互いに納得のできる接点を探し出すことが、コミュニケーションである。
日本の『コミュ力』は、対話、議論のできない、怒りや大声で相手を威嚇したり、キレて、論理性が無茶苦茶になったり、相手の言うことを冷静に理解できず、自分の解釈だけで物事を進めるトップのいいなりに、仲良く都合よく働くための『コミュ力』であり、そんなことを良しとしていれば、そのうち、ストレスだらけのサンドバック・パンチドランカーになってしまう。


大人たちに求められることは、議論で個人攻撃は決してしない、感情的にならない、余裕とユーモアとインテリジェンスが求められる、議論って、かっこいい、そう思わせる議論をしてゆくことだ。そしてそうした点で、野党論客の国会論戦はかっこいいよ(怒りを表現に使うのと、感情的になるのは、全然違うのだ 論理的で、冷静であることが大事)。
かっこ悪いのは、議論を理解できない、一方的な話しかできない総理大臣はじめとする大臣連中だ。学校教育も着々と隷属国民育成に向かっているようだが、周りの大人が、かっこいい議論をしていれば、若い感性はすぐに理解するだろうと思う。


とはいえ、若い人と、真剣に対話し議論することは、年の言ったものとしては、時として、大きなプレッシャーがかかる。自分の思い込み、傲慢さ、が晒されることもあるからだ。しかし、そこで、自分の考えをより深める機会にもなる。自分の大人も試される。
(先月、ゆとり世代の姪っ子が一月寄宿していて、ものすごく議論した。これが、存外、大変だったし、イラっとすることも多かりき。”ゆとり”の社会でも摩擦もがわかった気もした。でも彼らには可能性があるし前向きだ。こちらも勉強になった。若い世代の考えや感情や価値観が理解できて、新たな角度の見方も現れたと思っている)


ともあれ、日本人の議論へのイメージチェンジの第一番は、親父の頭ごなし一方的、俺の話を聞け的な体質の改変だろう。議論はエンターテイメント(朝生プロレス的な意味でなく)でなくてはならない。お互いの歩み寄りのために議論はある、ジャスティス・ハイに陥って、”論破”こだわったりは、極力注意が必要だ。議論に勝っても心を動かせなければ何の意味もない。まず目の前の人から、身近な人と、楽しい議論をしよう。


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