密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

責任感は想像力から始まる

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一昨日、PCに水をこぼしてしまい、乾かしてなんとか起動できたのだが、再びBlack Out。完全に沈黙してしまい、スキャウト(アップルコンピュータの整備店舗)に持ち込んだものの、大事なパートが完全にダメになっていると言われ、修理代900ドル以上かかり、かつデーター抜き出しに200ドル。 マックエアーの少し大きい新品で990ドルというので、買い替えを決意。


PCが自分に占める割合が多大なことを再認識した。新しいものを購入するまで、だいぶ前から読もうと思っていた『海辺のカフカ』を読むことにした。
インターネットのいいところは、知識情報の収集にスピード感があるところだ。特に日本から離れていて、日本のことを知りたい場合はとても便利だ。


しかし、久々に紙媒体の活字に触れると、こんなに感覚が違うのか、、と驚かされる。
ネット活字が炭酸飲料だとしたら、小説は、PH度の高いミネラルウォーターのように、じんわり知識が体に吸収される感じだ。


村上小説は、対象・言葉の距離感と、深い知的造形が心地よい。以前は洗練されすぎているので、それほど好きでもなかったが、こういう時にはぴったりだ。


小説の中で、この一節が気になった。
ナチスの幹部アイヒマンの話からで、
「すべては想像力の問題なのだ。ぼくらの責任は想像力の中から始まる。イェーツがかいているー In dreams being the responsibilitiesーまさにその通り。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」
イェーツの詩の”dreams”を夢と訳さず、想像力と訳すと、意味合いが大きく変わる気がした。実際後の文章では、『夢のなから責任は始まる』と主人公に言わせている。


ともあれ、村上氏の小説の意図とは離れ、想像力の欠如した人間は、責任というものを感じない、いや理解できないのだという視点に、妙に納得した。


人は、自分が何かを行う前に、それを行えばどうなるかを想像する。もちろんうまくいった時のことは誰でも想像するが、同時にうまくいかなかった場合のことも想像する。
多くの人たちに影響を与える決定であればなおさらで、そのリスクを考え、それでも行動に移し、うまくいかない事態が起これば、責任が発生する。至極当たり前のこのことが、
安倍政権閣僚と劣化自民党議員に決定的にかけている要素だ。


以前彼らの思考はフラット(平板)であると書いたが、想像力がフラットで、自分の希望する、したいこと、いいと思うこと以外に想像力が及ばない、故に彼らには責任が生じず、責任とは何かも理解できない。だから彼らが口にする責任を取るという言葉は、他の人々が感じる責任を取るという態度と全く噛み合わないのだ。


本小説では、アイヒマンがどれほど効率よく共産主義者や障害者、そしてユダヤ人を処理する、素晴らしい計画を立てたことを誇り、その計画が実際不測の事態で効率が損なわれたことに、裁判の場であっても怒りを発露させたと書いている。
素晴らしく頭がいい(けれどどこかで欠損している人間)の建てる計画、そこには他人の痛みへの想像力が決定的に欠如している。 最近の日本でもこうした想像力の欠如した自称有能な人間が増えてきていると感じる。


「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍び込んできたものなのだから』ヒットラーの巨大に歪んだ夢の中に否応なくも巻き込まれていった、アドルフ・アイヒマン中佐と同じように。


まともな社会であれば、安倍晋三の”巨大に歪んだ夢の中に否応なくも巻き込まれていった”忖度官僚と劣化超保守議員たちは、理解できなくても”責任”を取らなくてはならないが、それは彼らの夢が破綻した時でないと訪れないのかもしれない、ということに背筋が寒くなる。



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