密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

特攻隊員最後の叫びの記録も隠蔽破棄 なんら変わっていないご都合主義政府首脳部の身勝手体質

今日は,クリストファー・ノーラン監督の新作 ”DUNKIRK"を見に行った。第二次世界大戦中ドイツ軍によってダンカーク(ダンケルク)に追い詰められた連合軍40万人を英国に逃がす実在のミッションを題材に描いた映画。ダンケルクはフランス本土最北端、ベルギー国境から10キロの地点に位置する海岸線。


欧米の第二次大戦を描いた映画の、日本との違いは、”生き残ること” ”一兵卒も見捨てないこと”という軍の方針がベースに作られていることだ。(ベトナム戦争映画は恐怖と混乱が描かれ、心的外傷にもスポットが当てられる)


アメリカの日本との戦争映画では、日本のクレージー”グンソウ”が常に大声で威嚇し怒鳴り散らし殴りつけるシーンがどれも共通。日本のこの鬼軍曹に人間としての共感を与えたのは、「戦場のメリークリスマス」で北野武氏の演じたハラ軍曹が初めてだったのではないか。ホモセクシュアルだけが取りざたされたが、戦中の日本人のメンタリティーをアメリカの人々に、同じ人間のレベルで理解できる糸口となる良い映画だと思っている。
決してに本来賛美歌もされていない、人間の話としてみていられる。


昨今、特攻の美化、死を覚悟した戦闘という部分に崇高さやロマンを見出してしまう人もいるようだが、兵士にとって、生きて帰る希望、また見捨てないという軍への信頼がなくては、戦うこともできない、当然のことではないかと思う(戦争の是非を言えば、正しい戦争などなく、戦争をしないこと、これに尽きるが)


特攻隊の実際の声や、その死をとした作戦の成功率など、毎日新聞が戦後70年を機に特集している。追い詰められた日本軍部の起死回生の策が特攻であったという。

70年前の1944年10月25日、日本海軍の「神風特別攻撃隊」が初めて、米海軍艦艇に突入した。国力で10倍以上の差があると言われた米国に戦争を挑んでから、既に3年目。数と数がぶつかり合う近代の消耗戦は、日本の限りある人的・物的資源を消耗し、連合国との戦力差は開いていくばかりだった。こうした状況の中、採用された特攻は、生きては戻れない「十死零生」の作戦のため「統率の外道」とされながら、日本陸海軍の主要な戦術となっていく。航空機だけでも、約4000人が戦死したとされる特攻戦術。命中率(成功率)11%とされた中で、どのような戦果を上げたのか。


詳しいデーターは本文をご確認していただきたいのだが、この起死回生は、そもそも決して”回生”などしない、アイデアであることは、後世で誰が考えてもわかることだった。
意地とプライドで、自分たちの間違えを認められず、握手の握手を重ねて行くところは現政権とよく似ているが、この悪手と間違えを認めない硬化したトップによって、死ななくてもいい若者が死に、また自分の命を武器に突っ込んでくる得体の知れない日本人に対する恐怖は、本土決戦で、すべての日本人が戦闘員となる恐怖とリスクの回避から、日本全土焼き尽くし、民間人機銃掃射、そして原爆投下へと繋がってゆく。


特攻も、最初は成果を上げていたというが、技術のあるパイロットを死なせ、整備のできた機体を破壊し、物資の不足で機体性能も維持できず、パイロットも若年化し、成果はどんどん落ちてゆく。当たり前のことに軍部は気がつかない。いや、もうそんなことはどうでもいい、「武士道とは死ぬことに見つけたり」??一億総玉砕。


機材も命も、すべてを失う「十死零生」の消耗戦
本土決戦に備える海軍は太平洋戦争末期、特攻機の予期命中率を算出している。沖縄戦を戦訓に、対機動部隊で9分の1、対上陸船団で6分の1と見積もった。本土南西部に来攻する米上陸軍第1波(約10個師団)の輸送船を約1000隻と予測し、作戦を頓挫させるためには半数の撃沈が必要と判断。予期命中率などに基づき、航空機5000機の整備が必要とされた。


命中率が9分の1、すなわち約11%に落ちた理由は


搭乗員の技量低下
特攻機材の性能低下
米軍の対策向上
などが挙げられる。ただし、仮に命中率が2割台を維持できたとしても、「九死に一生」もない「十死零生」の特攻戦術においては、出撃した搭乗員・機材の全てが失われることに変わりはなかった。それは戦力の消耗でしかなく、その先にあるのは戦争遂行能力の破綻でしかなかった。


戦力を埋めるため、錬成途上の搭乗員を逐次投入する
技量未熟の搭乗員は生還率が低く、戦果も上げられない
損害ばかりが多くなり、搭乗員も不足する


「体当たりなんて…日本は終わり」特攻1号の関大尉


全軍の模範となる「特攻第1号」として、海軍兵学校出身の関行男大尉は特に選抜された。戦死後は2階級特進し、「軍神」となった。一方で、出撃前にこう慨嘆していたという。


「通常攻撃でも爆弾を命中させる自信がある。そんな僕に体当たりを命じるなんて、日本は終わりだ」


押し付け精神論で、合理性欠く。
米海軍は最新の科学技術、効率的な組織運用により、特攻戦術を無効化していった。精神主義の日本軍は物量だけでなく、米軍の合理主義にも敗れ去った。


特攻機の主目標は大型の正規空母(2万~4万トン級)を中心とする機動部隊。その外周部に、米軍は対空捜索レーダーを搭載した駆逐艦「レーダーピケット艦」による早期警戒網を設け、日本の攻撃隊を感知。空母の戦闘機隊で迎撃した。


迎撃網を突破した日本機に対しては、輪形陣を組んだ護衛艦艇の対空砲火が待ち受けていた。距離、高度、方位、速度を測定できる対空射撃指揮レーダーと連動。さらに一部の砲弾は最新の「近接(VT)信管」を装備していた。信管が電波を発し、敵機を感知すると砲弾を破裂させるため、直撃する必要はなかった。


こうしたシステムを統制したのが空母などに設置したCIC(戦闘情報センター)だ。ピケット艦の情報などを分析し、効率的に戦闘機隊を差し向けた。1945年5月の戦況について、米太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督は「神風の脅威を自信を持ってはね返すところまで来ていた」と記す。


衝撃力弱く「無意味さ」認識していた大本営
特攻隊は正規空母はもちろん、戦艦、巡洋艦も実際に沈めることができなかった。撃沈した護衛空母は1万トン足らずと正規空母の半分の大きさで、量産性に優れていたため「ウイークリー空母」「ジープ空母」などと呼ばれる代物だった。


米軍は「ダメージコントロール」能力にも優れていた。艦艇には専門の「ダメージコントロール」部隊を配置したり、自動消火設備を装備したりするなど、被害を最小限に食い止めた。たとえ撃破されても、沈没を免れれば造船工場での修復が可能だった。沖縄戦には正規・軽空母16隻、戦艦23隻、護衛空母28隻、巡洋艦39隻、駆逐艦205隻などを投入(「世界の艦船」803号より。雨倉孝之氏調べ)。開戦後の被害艦艇は後方に下げる一方で、艦隊編成に穴が開かないよう工夫していた。例えば、護衛空母は常に18~20隻が第一線に配置される態勢だったという。


米艦被害の実態は特攻機の命中率の低さに加え、体当たりの衝撃力の弱さも影響している。空中投下する爆弾に比べ、航空機の突入速度は遅い。大本営もそれは認識しており、1945年5月には「現有特攻機の装備と攻撃法では貫徹力不十分等のため、大型艦に対しては致命的打撃威力を発揮できないと認められる」と関係幹部らに通知し、対策を求めた。しかし、それでも、特攻は終戦まで続けられた。


「特攻は日本の恥部、美化は怖い」
保阪正康さんインタビュー

特攻とは何か。青年期に読んだ特攻隊員の遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。
「海軍のバカヤロー」と叫んだ軍神
ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の〝最後の叫び〟を聴くことができた。「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。〝軍神〟が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。



高校時代に「きけわだつみのこえ」を読みました。それが特攻隊について、考えるようになった契機です。その後、生き残りの隊員や遺族らに取材を重ねてきました。学徒出陣した上原良司氏(陸軍大尉。1945年5月、沖縄で戦死)の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していました。彼らは「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と言い合っていたそうです。取材後の彼女の何気ない言葉は重く、響いています。「指揮官たちは『後に続く』と言いながら、誰も飛び立たなかったそうです。その言葉を信じた兄たちが事実が分かったら、どんな気持ちになるでしょう」


 高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのでしょうか。英国は階級社会ですが、国を守るという点では王族・貴族もありません。戦争で死ぬということについて、平等性がある。戦争に貴賤(きせん)なしです。日本でも高松宮さまなどは前線勤務を希望していたようです。ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。


 兵士への危険負担を限りなく、低くすることが本来の指揮官の役割です。国民的バックグラウンドの下で、西洋の民主主義国家にはそれがあった。彼我の戦力を客観的に分析する。物量主義も、兵士を死なせないためにあるんです。日本にあったのは生煮えの軍事学です。仏独に学んだ上っ面だけの西洋軍事学に“日本精神”である武士道を乗っけた。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」(「葉隠」)の文言だけを取り出し、都合良く利用した。


 特攻は日本の恥部です。命を慈しむ日本の文化や伝統に反することです。命中率99%であったとしても、だめなんです。志願を建前としていましたが、実際には強制でした。本人が望んでいない死を要求し、死なせる。こんなものは軍事ではない。国家のため、大義のためという、自己陶酔でしかない。戦争とは人の生死をやり取りする闘争です。ロマンなどないんです。特攻は米軍に畏怖(いふ)心を与え、日本本土上陸をためらわせた−−との説がありますが、とんでもない。米軍は暗号名「コロネット」「オリンピック」などの上陸作戦を着々と準備していました。一方の日本軍は「義勇兵役法」で国民の根こそぎ動員を決め、1億総特攻に駆り出そうとしていた。国民一人一人が特攻要員だったんです。


 「特攻隊員は我々である」との視点が必要です。あの時代に生きていれば、あの時代が繰り返されれば、自分も特攻隊員になるかもしれない。特攻を考える時、必要なのは同情ではなく、連帯感です。隊員の苦衷、苦悶(くもん)が分かれば、美化することなどできないはずです。「特攻で死んだ人に失礼ではないか」「彼らのおかげで今の日本がある」などと言ってくる人がいます。どうして、そんな軽々なことを言えるのか。特攻を命じた指揮官たちと変わりませんよ。


 クラウゼビッツ(プロイセンの軍事学者)は戦争を「他の手段をもってする政治の延長」と位置付けました。本来は政治こそが、軍事の上になければならなかった。日本が陥った軍部独裁は政治家たちだけの責任でもありません。国民も軍をもてはやし、甘やかした。勝つことこそが軍の目的ですから、負けると分かっても戦争をやめることなどできなかった。行き着いた先が特攻です。


 特攻について、時に涙が止まらなくなるほどの感傷を持っています。それとともにわき上がるのは軍への怒りです。この二つがあってこそ、特攻に向き合えるのではないでしょうか。どちらかに傾いてもいけない。特攻は時代を測るメルクマールだと思っています。いたずらに美化することは非常に怖いことです。集団的自衛権によって、自衛隊が海外派兵される可能性が高まっています。良くも悪くも、軍隊というものには国民性が表れます。今こそ、旧軍について、十分に検証すべきです。それが無くては、特攻というシステムを採用するような組織が再び、生まれてしまうかもしれません。


ほさか・まさやす
 1939年、札幌市生まれ。74歳。同志社大文学部卒。出版社勤務を経て、著述活動に入る。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。長年の昭和史研究で2004年に菊池寛賞を受賞した。



現政権の体質が、この軍部独裁首脳部とよく似ている。「世界の中心で咲き誇る」勝つことだけがすべてである、勇ましいプロパガンダ。ゆえに勝つ続けなくてはならないアベノミクスも収拾がつかず次々と新しい矢を番える。 負けを認めない=歴史を認めない。
”こんなものは軍事ではない。国家のため、大義のためという、自己陶酔でしかない。”
安部首相の国家のため、大義のためという、自己陶酔。
命をかけた若者の声を握りつぶすことも、何も変わっていない、というより、無策でプライドだけの独裁軍部の再来です。
そして軍部をつけあがらせたように、安部一強を、国民がもてはやし、甘やかした、これも似ている。しかし私たちはまだ引き返せる。無謀な強行裁決で送り出した自衛隊員たちを本来望んだほころの持てる災害救助、人道支援に呼び戻せる。


プライドの軍部の裏で、戦争利権を貪り権力を得ていた一握りの人間たちがいたように、
国家の私物化で、お友達優遇税金還流が行われたきた。
戦後、自ら勝ち取った民主主義ではないにしろ、その理念を認め、注意深く2度と戦前戦中の失敗を繰り返さないように、憲法9条を軸に歩んできたのは現在の日本であり、それは、現人神に仕えて盲目的に自分の権利放棄をしなければならなかったzrん時代とは違う、いや違うということを示さなくてはならないのだと思う。


”国”のための自己犠牲などを賞賛してはいけない。国=国民であり、一人一人が自分のために、自分の大切な人のために、そして、自分と同じような他の人の幸せも大事にできる社会のために、生きて元気に働けることこそ尊いし、幸せを追求することこそ健全。


2度と、浅薄で利己的、国民の命に無責任な人たちに政権を委ねてはいけない。



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