密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

杉原千畝、今こそ必要とされる指針、人間のあり方と他者への無償の愛。

昨日、友人宅に夕食に呼ばれた。写真家と陶芸家のご夫妻で、日本に滞在奨学金芸術家(レジデンス)として、京都に1年滞在していた。そして日本の事に知識と関心を持ち続けている。夕食の席では、安倍の独裁政権の話題になり,特に辺野古での強権執行が、日本ではアメリカの要請と思われている事をとても,心配していた(何度も書くがアメリカ軍は移動可能だし、地元に対しての圧力、摩擦を望んでいない。地元の積極的受け入れが前提なのだ)その流れで、現在の日本の難民受け入れの厳しさ(それどころか、国民も監視取り締まりを準備している−陰謀説は嫌いだが、靖国トイレ爆弾。ずいぶんタイミングよく、被害ほとんど無し、インパクト抜群の、”ゲリラ”がおこったものだ。)話題に上り、杉原千畝の話になった。恥ずかしながら(again!)私はこの人の事を知らなかった。


Dさんにも、知らないの?と呆れられ、家に帰って、ウィキペディアで検索。
海外では有名な日本人外交官で,ナチスに関する文献には必ず名前が出てくる。ナチスユダヤ人抹殺計画の侵攻で,逃げ場を閉ざされ、千畝が外交官に赴任していたリトアニアに押し寄せたユダヤ人難民に,日本へのビザを発行し続けた人で(もちろん政府の意向を無視して)記録にのこっているだけで,6000人のユダヤ人をナチスの手から救った。ユダヤ社会から尊敬と感謝がつづけられた『日本のシンドラー』。戦後外務省を解雇され,長く不名誉にさらされていた。「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、戦後、救済を受けたユダヤ人による千畝の名前の照会時も杓子定規の対応で(名前の読みの違えにたいして、名字は合っているのに該当者ナシと回答)、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。以下ウィキペデイアからの後半生の要約「1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。1986年86才での生涯を終える。千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、生前の千畝を知る三百人余が参列。日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだった。


この杉原千畝の映画が日本で12月公開されると云う情報もゲット。こういうときは,日本にいればなぁ、と残念に思う。監督はチェリングラッグ、日本版サイドウエイの監督だ。期待大!!!DVDまで待つしかないが。


現在、日本の国際的評判は落ちるところまで落ちている。歴史修正主義者の身勝手な海外への恥知らずな広告プロパガンダ,首相政府中枢のバカげた発言は、日本人が思っているのの何倍も海外の良識ある人々の知るところであり顰蹙の対象である。お金はだすが、難民受け入れはしないと云う,身勝手で傲慢な国際貢献認識(これなら湾岸戦争時の,金はだすが人は出さない非難ーこれは捏造あるいは,一部証言をオーバーに結びつけ、軍強化意見の後押しに使ったと見られているがーに対する憲法遵守で軍隊は送らないとする態度の方がうんと筋が通っている。)。自由民主主義の国にあるまじき言論の自由の規制、それを担保する、国連調査官受け入れドタキャン無期延期。男女格差、海外研修員のように社会的弱者に対する酷い対応。ヘイトスピーチ、ナチス礼賛などなど。こんなご時世に,この映画が制作、公開され、私のように杉原千畝を知らなかった人たちが、困難な時期に正義を行う努力をした人の人生を知ることはとても意義がある。そしてこの偉大な行為の原動力がただ目の前の困窮する人々に対する人間愛のみだった云う事実も,彼を強く支えた人、賛同し協力し救済に努力した人たちのことも、未だに恩を忘れず,感謝を示し続けるユダヤ人社会のことも、知るべきだろう。そして,ほんの少し,また人間性を保つのに困難な時代が到来する予感の昨今に、善意を表明する勇気を得る為の糧にするべきではないかと思う。



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