密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

亡くなった人に安寧を、生きている人に安心を、が、仏心

以前、アマゾンのお坊さん宅配についての仏教会の反発について書いた。
宗教界も世襲貴族の天下、既得特権維持に伝統、格式を持ち出す。 - 密接な関係にある他国から


朝日が、新しい寺院の役割や人々との関わりを模索する、一人の僧侶について記事を書いている。埼玉県熊谷市の見性(けんしょう)院は400年以上の歴史がある曹洞宗のお寺だ。住職はいまの橋本英樹(えいじゅ)(50)で23代目。



記事を要約


檀家が減り、寺院の経営基盤が揺らぐ「寺院消滅」の時代。「変革」を起こそうとする住職橋本英樹(えいじゅ)さん。明朗会計とサービス重視、ネットを使って信徒獲得をめざす。しかし、仏教界から強い反発があるようだ。



参道入り口に「心得十カ条」僧侶として守るべき最低限の戒律を橋本が考えたもの。
 質素倹約を旨とする▽原則、禁煙禁酒▽高級車に乗らない▽ギャンブルはしない 

お布施の「料金表」も掲げ、葬儀を担う導師がひとりで戒名が「信士・信女」の場合で20万円。通夜から初七日、火葬、戒名授与までを含んだ額。以前は50万円もらっていたのを大幅に下げた。遺骨を郵送で受け付ける「送骨サービス」を始めた。荷造りに必要な段ボールなどを希望者に送り、骨つぼに入れた遺骨を送り返してもらう。敷地内にある納骨スペースに合祀(ごうし)し、永代供養する。料金は送料込みで3万円強。宗派や国籍は一切問わない。維持費もいらない。


「お金がなくて墓が建てられない」「墓の後継者がいなくて困っている」といった相談が以前からあり、低価格のプランなら受け入れられる自信があったと橋下さんは言う。

橋本さんが「変革」に踏み切ったのは4年前だ。江戸時代から続いてきた檀家(だんか)制度をやめて、寺と、檀家改め「信徒」との関係を、互いに縛らないものにした。背景にあったのは檀家数の減少や、葬儀や法事が簡素化する流れだ。地縁に縛られ、新規の「顧客」が開拓できなければ、寺の経営は立ちゆかない。明朗会計とサービス重視を掲げ、ネットを通じて新規開拓する方向へとかじをきった。


スタンフォード大学の仏教学研究所、2年間の在籍時に。日系寺院に泊まり込んで手伝い、寺が葬儀や法事をするだけでなく、茶道や華道、書道や太鼓といった日本文化を伝承する役目を担っていることを目の当たりにした。



檀家に依存する寺から、万人に開かれた寺へ。「みんなのお寺」を掲げる見性院のヒントがあった。檀家との関係をいったん白紙にし、「随縁(ずいえん)会」という会員組織にした。葬儀や法事への対応は今まで通り。会費は無料。別の寺の檀家になってもいい。寺は新たな信徒獲得に乗り出す。


アメリカに仏教寺院は、とても開かれているし、東洋思想を学びたい人たちと、自分の国で行ってきた習慣、信仰を継続したい人、それから、自国の言葉で話せるコミュニティー
としての役割が大きい。友人のベトナム人のお寺では、読経や、お話の後に、精進料理を振舞い歓談するのだそうだ。カリフォルニアの禅宗寺院は若い人の体験交流の場。自分の生活に疑問を持ったり、周囲との齟齬のある若者が、集まって、共同生活を実施していた(ものすごく高い岩山にある)。もともと日本でも寺院は病院や学校の役割を負っていたという話を聞いたことがある。伝統だの、格式だの言い始めると、通り一遍のサービスをして、高いお金を取ることに安住し、ゆえに、人が離れるのは当然。
 
 だが橋本の「ビジネス路線」に対する仏教界の反発は強い。曹洞宗の宗務庁は4月、送骨サービスについて「単なる経済的対価を得るための行為」と誤解され、「純粋なる信仰心と宗教行為に対する重大な冒瀆(ぼうとく)及び誤解の起点となる」と厳しく批判した。


 見性院が属する曹洞宗埼玉県第一宗務所の所長、安野正樹(建福寺住職)によると、「檀家の遺骨が勝手に郵送された」といった苦情が別の寺から寄せられているという。安野は言う。 「宗教者が遺骨の郵送を率先して奨励するのはいかがなものか。本当に困っている人を助けたいなら、自ら取りに行くべきだ」


”純粋なる信仰心と宗教行為に対する重大な冒瀆”禅宗の一派・曹洞宗は”只管打坐ーただただ、坐禅を続けることで悟りを得る” 方式を採用しているので、そういう考えになるのか?純粋なる信仰心と宗教行為は行わなくてはならないが、それは自分の悟りというか、心構え。大衆を導くためのトレーニング。だいたい”無”の境地に至ることが目的の禅宗に、宗教の冒瀆とか、なんとかこだわる方が、無への冒瀆。


禅僧は、こだわりを捨て、融通無碍に対応する。橋本住職の対応こそ、まさにそれ。
保守派の詭弁って、こういう感じが多いね。「宗教者が遺骨の郵送を率先して奨励するのはいかがなものか。本当に困っている人を助けたいなら、自ら取りに行くべきだ」って詭弁もいいところ。


では、ご自分は行くのか?一人のところにいちいち取りに言っていては、多くの人の要望に応えられない。「本当に困っている人を助けたいなら、自ら取りに行くべき」という独善的こだわりを捨て、現実の状況に対応することこそ、禅僧のあるべき姿、と私は思う。


 こうした声を橋本は、「宗教も経済的行為の上に成り立っている」と意に介さない。だが本来、ビジネスという「俗」から切り離された「聖性」にこそ宗教の本質があるのではないか。宗教と経済、信仰とビジネスは両立できるのか。疑問を橋本にぶつけると、「究極の問いですね」と答えて考えた後、こう言った。「これからは宗教とお金の関係をクリアにし、説得力を持って語れる寺だけが生き残れる。それが私の答えです」=敬称略(佐藤秀男)



見事なお答え、まさに禅僧の鏡。こういうお坊さんがもっとたくさん出てきてほしい。
こういう人たちは、伝統だ美しい日本だと自分たちの支配権力のために、人々を縛りたい国家神道支配に対抗するためにも、ぜひ、開かれた寺院、融通無碍な僧侶、それに神官も、聖職者(プリストもラビもイーメンも)どんどん出てきてほしい。そして、異宗教交流も果たして欲しい。現に世界では多くの聖職者が、お互いに交流し、哲学的議論をしている。


現代の日本の聖職者は、人々を争いから遠ざけ、心の平穏を導き、平和を保つ。その目的のためにあるべきだ。伝統は大事だが、格式だの尊厳だの、聖性だのにこだわれば、宗教そのものが人殺しの種になる。


俗」から切り離された「聖性」にこそ宗教の本質? ”仏法は泥中の蓮華” 泥の中から、清い花を開かせ、それと同時に身を結んでいる。泥なくしては開花なし。 
ドブに落ちても、根のあるやつは、いつか蓮(はちす)の花と咲く。って寅さんも言っている。

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