密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

差別表現、そんなつもりじゃなかったは自分のつもり。

日本にも差別の歴史、現在まで続く差別がある。
丸山議員は、アメリカはもう克服してしまっていると、簡単に考えてしまっているのだろうか? アメリカ生活の経験があるのに、ずいぶん鈍感なことだ。本当に長い差別の歴史を持つアフリカ系アメリカ人を、国民がついに大統領に選んだ、それは革命的で、そしてそういう事を選挙によって起こせるアメリカを賞賛したのだ、と云う気持ちからの発言だったのだろう(最悪の表現だったが)、だからご本人、不本意と抗弁している。しかし黒人と云う言葉、奴隷の子孫と云う表現に、過去の、いや現在に置いても続いている、差別の状態を表す要素が強い。 そうした現実を一顧だにしない、自分の鈍感さ思いやりのなさを思い至れないのが、人として欠陥だろうと思う。


黒人Brack peopleと云う表現はカジュアル会話では、Brack (people) White (people)を使うが、公式にはアフリカ系アメリカ人 African American。初対面の人や、その人の人種についての考え方が判らないときも、アフリカ系アメリカ人 と云う様にしている。
アジア人にはアジア系Asian、Yelloe peopleとは言わない、言われれば、悪意、侮蔑と解釈する。ラテン系はLatino、Brown peopleとはいわない。それを取ってみても黒人と白人の葛藤と共存の歴史は長い。


姪っ子や、若い友人がこちらに遊びにきて、日本からの衣類のバックプリントで(日本の感覚だとクールな響き)差別英語が堂々と表示されているものは、着て歩かない様に注意する。 いらだっていたり、攻撃的な人に、いきなり蹴られたり、食べ物を投げつけられたりする危険性もあるからだ。
たとえば、Nigger XXX とか、Black Kidsとかは明白、中には私も気がつかず、Dさんに注意されて、そうなんだぁ,と驚く言葉、表現もある。


特に、自分たちの住んでいた国から強制的に誘拐され、牛馬のような扱いで働かされ、解放後も現在に至るまで、ことあるごとに差別にさらされているアフリカ系の人たちの、怒りの深さ、諦観や悲しみは、他国人が抵触する場合には、十分配慮しなければならないし、社会的弱者、マイノリティーの気持ちは自分がその立場に立ってみないと解ったつもりでも真の部分は判らないかもしれない。


これから、日本も沢山の国の人たちが住む様になる、移民も受け入れてゆくだろう。
そんなつもりじゃなくても、差別的と取られる表現をしてしまうこともある、ということを知り、それでも、気遣いや優しさは国境がないので、お互いの理解は深めていくうようにしてゆけばいい。
最悪なのは丸山議員のように”自分のつもり”だけ押し付け、相手の痛みに無関心でいることだろう。


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