密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

盲点:トリエンナーレを毎年楽しみにしている人たち?+アートの定義again

あいちトリエンナーレ非難メール・ツイートに、ぼうごなつこさんが漫画で鋭い指摘。


これは盲点だった!!確かに日々官邸の下支えでお仕事に邁進されている方は、現代美術・コンテンポラリーアートなんて意味不明で興味ないでしょうし、そうなればビエンナーレ・トリエンナーレなんて言葉も、何かの名称?くらいに捉えてしまっても仕方ない。


このところ再三あいちトリエンナーレがらみの記事を書き、2日で1400もの苦情電話・メール等の出所が疑われるという考えを示してきたが、これは語るに落ちた、といったところか。


ところで我が卒業大学同窓の出世頭・アニメーター(というのか?キャタクターデザイン)貞本義行氏が、平和の少女像をキッタネーとツイートしたそうだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズのキャラクターデザインやコミカライズなどで知られる貞本義行氏が9日、こんなツイートをしたことが物議をかもしている。
〈キッタネー少女像。天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習 まるパク!現代アートに求められる
面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性 が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ〉


アーチストは概ねリベラルで多様性を最も重視する傾向にあるアメリカだが、日本は国粋主義アーチストや嫌韓アーチストに時々お目にかかる。アメリカではアーチストは特にコンテンポラリー分野のアーチストはリベラルであるから、画廊などでは、撃たれることを心配せずに大いに反トランプトークができるし、日本への原爆投下に対しても、正当な行為だという意見は全く聞かれない(中南部でこの議論種(トランプマター・原爆マター)は注意が必要だ、ただフロリダでも日本人に面と向かって、原爆は正しかったぞ!!という人に今のところあったことがない。そう言いそうな人は服装とかを見てわかるので近づかないようにしているせいもあるが)


同氏のキッタネーには、2つの意味合いがあるようだ。一つはこの像を取り巻く政治的主張に対する否定。もう一つはこの像の技術的側面と具象作品に対する蔑視、コンテンポラリーアートへの憧憬、だろうか。


我々が大学生の頃、アメリカからきた(アメリカが最も牽引していた)コンテンポラリーアートという新しい概念に教授陣も含め、みんな夢中になった。コンテンポラリーアートでなければ、劣って古いアートという考えが席巻した。(そうした中、貞本氏はマンガで卒業制作を提出した、気合の入ったマンガ人だった)


アートへの定義・価値観はそれぞれの考え方だが、日本の美術界は、意味をなさないコンテンポラリーアートか否か?を論じて ファインアートか否か?という重大な主題をすっ飛ばした。


”現代アートに求められる面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性”
確かに、面白さ、驚きは、要素であるし、知的刺激性などはコンセプチュアルアートや、文字自体を主題にする作品(これ結構多いのだけれど、英語ネイティブでないと知的刺激性は遠のく)にはあてはまる。美しさーこれは現代のファインアートにおいて常に議論が必要なポイントであり、心地よさに関しては、アメリカでは、心地悪さの方が追求され評価される傾向がある。


貞本氏のツイートは、コンテンポラリーアートに対するイメージの幻想が散見される。
それはそれでいい。しかし、だからと言って、平和の少女像をアートとして否定できる論拠はない。


前の記事に取り上げた、宮台真司氏のこのアートの定義こそ日本美術界がコンテンポラリーアートブームに浮かれて、突き詰めようとしなかったファインアートの定義だと思う。
アートとは、それを経験したあと元のようには生きられない、生き方、価値感に揺さぶりを与えるもの。経験した後、元に戻れるものはーRecration(リクリエイションー自己再生の手助け)娯楽 である。 アートはアンポピュラーで当然、受け手が不愉快になる表現、しかしなぜわざわざ自分が(アーチスト・作者)が不愉快なものを作ったか?それをよく考えて欲しい、ということができるもの。



「表現の自由」を守るためにはそれ相応の覚悟と準備が必要だ


故に美術館の使命とは、アンポピュラーな表現を支え作品を世に問うことだ。


アートは心地よくなくてはならない、人を不快にさせてはいけない、感じよく・美しく・適度な知的刺激を振りまいてくれる娯楽ーで、あってはならないのだけれど、そういうものを一般の画廊で支えることは難しい。売れなければ潰れるわけだし、アーチストもどこかで、それを考える。以前音楽家の友人が言った言葉『受け入れられる程度の異端』けだし名言である。多くのアーチストもこの『受け入れられる程度の異端』にいれば、画廊空間内でいわゆるコンテンポラリーアーチストとして存在しうる。


そして日本のアートは”面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性”を満たす娯楽として存在する。


宮台氏のアートの定義に殉じ制作を続ければ、日本の社会では、大多数が貧乏と孤独のうちに狂死にコースを免れない。それは、社会の役に立たない、大勢の人と同調して生きられない人を生産性がないとして排除する社会のまごうことなき一部である。


今回のあいちトリエンナーレ問題によって、アートについて、美術館について(トリエンナーレの芸術監督選択や、中止のトップダウンなど、透明性がなくかつ恣意的に行われたしまう問題も含めて)表現の自由について、匿名集団恫喝+テロ行為との対峙の仕方について、議論が広まったことは、”表現の不自由展〜その後”のその後がいい働きをしたと感じている。


言葉のイメージでなんとなく理解してしまいがちの日本人だが(だからイメージ戦略・キャッチフレーズ政策だけの政権が長期化している)その言葉の土台にある歴史的事実やその上で行われた議論・運動・変革の積み重ねにしっかり目を向けないと、トンデモナイ方向に行ってしまうのは、政治も社会もアートもおんなじだ。


それと、『自分がこう思うんだからいいだろう』『それを主張するのは表現の自由だ』は、自己の理解の広範囲の検証をして初めて言っていいことだと理解してほしい。
だからアーチストは常にアーチストステイツメントを書く。書くことで個人の内的思考を
他者に理解できるように伝え(また自己の論理の破綻・矛盾・脆弱性を認識する)、自己の表現の基盤を明確にする。


表現の自由を背負うことは重たいことだ。誹謗中傷・デマの言いっ放しに表現の自由を盾に利用するべきではない。



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