密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

力で弱者を支配するものは、それを教育だという。

新潟知事選、残念ながら池田氏+野党共闘は勝利を果たせなかった。野党5党は、直ちに敗因を分析し、支援者、国民に公表し次の糧にするべきだ。そうしないと、所詮自民党が総力戦をすれば負けるという無力感に苛まれる人も出てくる。無力感こそこの国をずるずると地獄に引きずり込む潤滑剤だ。無力感にとらわれるな!自分を戒め、とにかく、安倍政権壊滅まで希望を捨てず、野党共闘を応援し続けたい。


話は変わるが、東日本大震災以降特に児童虐待の数が増えてように感じる。親も人間だから、大きな危険にさらされればストレスも溜まり、子どもの行動に寛容性を失う。経済などで先行き不安で余裕がなければ、そのストレスのはけ口を、女性や子供に向ける。


日本では、親の憂さ晴らしの暴力を”躾け”だの”愛の鞭”だのと言って正当化してきた。これは軍国主義教育の名残が今も尾を引いているし、昨今よりこの詭弁を、それを使う資格が自分にないものほど多用し、弱いものを虐待する傾向が増えている。


国も、全体主義や国粋主義に陥ると、権力の恫喝・暴力を”教育”とのたまう。
5歳の女の子に、こんな手紙を書かせる。支配の快楽の果てに幼い命を奪ってしまう。
東京新聞:女児SOSに衝撃 目黒虐待死つづったノート:社会(TOKYO Web)
もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからきょうよりもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします


 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおします


 これまでどれだけあほみたいにあそんでいたか あそぶってあほみたいなことやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします


幼稚園児(上記の手紙を書いた船戸結愛ちゃんと同世代だろう)に教育勅語を唱えさせ、排泄を我慢させ、水を飲ませない”教育をした塚本幼稚園も、これが教育だと信じ込んで行なっていた。


こういうことは教育ではなく、調教だ。躾ではなく虐待だ。そもそも躾けなどという、形骸的な社会順応を目的とした所作を教え込むことも、如何なものかと思ってきた。


アメリカで、時々いる、とっても手のかるやんちゃわがままKidが、社会的な場で人に迷惑を変えている場合、親は”大人に対して、リスペクトを持ちなさい”と教えている。
家庭内でも、ママと喧嘩した娘に、パパがママをリスペクトしなさいということも見受けられる。殴ったり怒鳴ったりしていうことを聞かせようとはしない。子供の背丈で、目と目を合わせて、とことん話し合う。子供に利があれば、きちんと謝る。子供にも人格があり、独立した人間同士という前提がある。全ての親がそうだとは言わないが、そういうスタイルが基本になっているのがわかる。


自分に対等の抵抗のできないものに、暴力を振るう。そんな人は、どれだけ立派な自分を想定できるのだ。また、暴力の優位に立つのは男性であり、雇用者であり、政治権力者である。逆の話になるが、中国・韓国の友人に子供が母親を殴るということが日本であるが、これはアジア的の女性蔑視かな?問おうと、母親を殴る子供などいない、とびっくりされた。アメリカでももちろん聞かない。暴力によって相手をねじ伏せることが、男らしさとして大手を振ってまかり通ってきた日本社会。その土壌の上に、対話を拒否し圧力で相手をねじ伏せるやり方がお好みの安倍政権は明らかに日本の空気を汚染している。


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