密接な関係にある他国から

アメリカと日本の社会、文化、日常感覚など、下から目線でつなげてみる。

トランプの威をかるどっちもどっち論の意味不明

トランプのパパ擁護+トランプな人たちの支持を失いたくない、から発せられた”Many
Side"とその後の二転三転のみっともない対応で、もうこれ以上ないほど評判を落としているトランプであるが、どうも日本の右寄り論客は、差別主義肯定の詭弁が、とても格調高くCoolに聞こえるらしい。


こういうところが、アメリカより日本のほうがうんと心配な部分だ。
本質をすっ飛ばし、あるいは混ぜ返し、言葉上の”遊び” ”減らず口”をあたかも正論のように吹聴し、またそれを無責任に面白半分に流布する人たちが多い。 


アメリカもトランプな人たちはフェイクニュースを絶対的に信じているが、面白がって無責任に流布するということではなく、彼らの生活で伝統?を支える根幹みたいなもの。それでも、普通のトランプ支持者は白人至上主義を肯定しない良識を持っているーのでトランプ氏は白人至上主義者ではないと主張する。無責任にあるいは意図的に流布するのはトランプと、フェイクニュースの発信元、オルタナ・ライト放送局だ。



白人至上主義者らと反対派の衝突事件をめぐるトランプ大統領の人種差別肯定発言問題。本サイトは18日朝の記事で、差別が絶対的に悪であるという自明の前提を無視したトランプ的“どっちもどっち論”が実は日本で大手を振ってまかりとおっている状況を批判したが、さっそく、ワイドショーでとてつもなくひどい“どっちもどっち論”が垂れ流されていた。
 それは、同じく18日放送の『バイキング』(フジテレビ)でのことだ。『バイキング』といえば元横浜市長の中田宏氏や“皇族芸人”こと竹田恒泰氏など、右派の安倍応援団をコメンテーターに起用しているが、この日のスタジオには最近、作家の百田尚樹らとつるんで反中言説に精を出しているジャーナリスト・有村香氏が登場。トランプ発言をめぐるスタジオトークのなか、有本氏はこんなことを言い出したのだ。


「ただ、この事件の背景に、リー将軍の像を撤去するかしないかという問題がありますよね。これはちょっとなやましいところもありまして。奴隷制があった時代のアメリカのいろんな事柄というのは、芝居にも映画にもなっているじゃないですか。いまやアメリカでは、その時代の名作と言われるような映画なんかも公開できないという状態になっているんですね。それが、現在のアメリカの政治的正しさ、ポリティカル・コレクトネスってよく言われたんですけど、そういうものになっている」
まず、シャーロットビルのKKK・ホワイトプラウドの行進は、リー将軍の像を撤去反対デモではない。一部にその要素があるのは否定できないが、そんなことは口実で、彼らがこのところのトランプ台頭でおおっぴらに自分たちの勢力誇示を行うようになっただけのことである。


それから有本氏の言、
奴隷制があった時代のアメリカのいろんな事柄というのは、芝居にも映画にもなっているじゃないですか。
なっていますよ、ですが、白人至上主義を肯定するための映画や芝居などはないのです。大半のアメリカの映画人も、演劇人も、文学者もリベラルですから。
その時代の名作と言われるような映画なんかも公開できないという状態になっているんですね。
その時代というのは南北戦争当時ですか?その頃映画なんて存在しない。 
また後世に歴史物としての数多の名作があるが、奴隷制を肯定する題材の映画などKKKの自主映像でもない限りありえない。武将としてのリー将軍と北軍のバトルを描いた戦争物はあるかもしれないが、南軍は負けるので、リー将軍への一方的礼賛映画にはならないし、リー将軍に焦点を当てたとしても、監督が自身の視点で深く人間に人生に言及していれば誰も否定し得るものではない。ヒットラーを描くよりはうんと安全な題材だろう。
リー将軍の描き方で、反発しそうな人々は、難しい歴史ものなんて見ないだろうし。
南北戦争を題材にした映画が公開できない状態なんてありえない。


歴史修正主義の特攻賛美映画とか、慰安婦像撤去と同じメンタリティーで理解してもらっては困る。こういうところが我田引水なんだよね。


アメリカの、差別主義への嫌悪は、日本のように政府が印象操作でどうこうできることではなく、人々の間に良識として染み付いている。だからトランプ発言は共和党側からも非難される。


Tシャツの文言でも、差別的な言葉を入れて売り出せば、その会社は潰れる。シャレのつもりで使った大手のTシャツ会社が実際2ヶ月で倒産したこともある。差別に関しては、
ポリティカル・コレクトネスでは片付けられないものだ。喉元を過ぎても熱さを忘れない歴史の重みを持ち続ける国民性というのは確かにあるし、現在も進行形のアメリカの人種問題課題として存在している。
その時代の名作と言われるような映画なんかも公開できないという状態になっているんですね。それが、現在のアメリカの政治的正しさ、ポリティカル・コレクトネスってよく言われたんですけど、そういうものになっている』ーまるでアメリカで表現の規制が行われているかのようなニュアンスを明言している。アメリカの表現の自由の根幹に疑義を唱えている?なんとも勇気あるジャーナリスト魂には感服するが、そこまで言うなら、具体的な作品名もきちんとあげてほしい、そういう責任がある。


表現の自由の問題でなくとも、現実的問題として、公開阻止をするとすれば、カルフォルニア選出の上下院議員及び大統領にとっても、ハリウッド映画界は大きな存在。古典の名作や時代物の新作を公開させないために動くなんて、しかも表現の自由に抵触すること絶対するわけがない(また別の大抗議運動が勃発するし、議員は多くの票を失い、政党は議席を失う)。


「この差別問題っていうのは、アメリカの中に非常に大きな影も落としているだけではなく、そういう新たなルールみたいなもの、こういうものを形成してしまっているというところがあるんですよ」
この南軍指導者の像の撤去運動は、現在全米各地で加速している。なぜ最近なのかというと、トランプの影響で白人至上主義、有色人種排斥を叫ぶ人間がおおっぴらになり、人々が危機感を持ったためだ。逆に撤去反対などというのは、彼らの口実に他ならず、それより彼らが像を英雄視して集会場所に選び怪気炎を上げることへの危機感の方が先だと思う。像の撤去が先では意味が通らない。また”新たなルール”などというのはのはなんのことなのか?意味不明。


リー将軍とは、南北戦争で奴隷制存続派の南部連合を率いた軍人、ロバート・E・リーのことだ。今回のバージニア州での衝突事件では、奴隷制を支持した勢力を顕彰するのは適切でないという広い認識を背景に、公園のリー将軍の像を撤去する決定を市が下した。これに対し、像の撤去反対を名目に白人至上主義者やネオナチらが集合して大規模集会とデモを行ったのが事件の発端だ。
 
つまり有本氏は、このリー像の撤去問題を「なやましいところもある」と表現し、奴隷制、人種差別撤廃をめぐるポリティカル・コレクトネスに話にすり替えているわけである。しかも、明らかに“反差別に配慮するあまりいきすぎたポリコレ”という文脈で、そんな話を唐突に持ち出したのだ。<後略>


海外のことだから、どうしても自分の国に当てはめて考えがちだが、字面は同じでも根底に流れているものは全く違こともある。ましてやアメリカの状況を借りての我田引水は、情けなさすぎる。
アメリカ人は、トランプの”どちらにも非があり、どちらにもいい人はいる(パパのことだろう)”なんていう口当たりのいい一見公平そうな言葉などにはごまかされない。
それが8月19日、ボストンでの差別容認派による自称「言論の自由」集会に対する反応で明らかになった。この集会については次回に書きます。



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