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民主主義・表現の自由への希求 劉暁波氏が残したメッセージ

7月13日に亡くなった、中国民主化運動の象徴、ノーベル平和賞の人権活動家劉暁波(ルウシアオポー)氏の志半ばの死を悼み、ハフポストが、2010年12月、主役不在のノーベル平和賞授賞式において、が代読された、2009年12月、自らの裁判審理で読み上げるために記した陳述書「私には敵はいない──私の最後の陳述」の全文を掲載している。


私たち日本人が戦後破壊された国土で、それでも、前向きに奇跡の復興を成し遂げた基盤に、戦勝国の指導による民主化があり、平和憲法があり、言論の自由があった。
戦後生まれにとっては、当然のように得てきた、言論・表現の自由 民主主義。しかしお隣の中国は、文化大革命の粛清にさらされ、それが倒されて徐々に民主化への動きがで始めたが、この動きに肯定的だった、胡耀邦元党総書記の死をきっかけに起きた64天安門の民衆への無差別発砲を経て、政府は強権を強め、縁故利権も横行し、言論規制、反政府活動をする人たちの逮捕、生涯にわたる監視が行われている。中国の人々は、今なを民主主義、言論・表現の自由を求めて戦い続けている。


しかし、劉氏の、陳述書「私には敵はいない──私の最後の陳述」は民主化に向けた長い長い戦いと迫害、それでも変化を遂げている自国への愛情、人々への愛情、そして夫人への愛の音葉で綴られている。

全文は以下の通り。


50歳を過ぎた私の人生において、(天安門事件が起こった)1989年6月は重要な転機だった。


文化大革命後(1977年)に復活した大学入試で、私は最初の大学生の一人となった。私の学生生活は博士課程まで順風満帆だった。卒業後は北京師範大学に残り、教員となった。


教壇では学生から歓迎される教師だった。同時に、公的な知識人でもあった。1980年代には大きな反響を呼んだ文章や著作を発表し、各地の講演会にも頻繁に呼ばれ、ヨーロッパやアメリカからも招かれ、客員研究員になった。


私が自分自身に求めたのは、人としても作家としても、正直さと責任を負って、尊厳を持って生きることだった。


私はアメリカから戻り、その後に1989年の民主化運動に参加したことで、「反革命宣伝扇動罪」で投獄され、情熱を込めていた教壇を失った。中国国内において、私は二度と本を出版することも、講演をすることもできなくなった。


異なる政治的意見を表明し、平和的な民主化運動に参加しただけで、一人の教師が教壇を追われ、一人の作家が出版の権利を失い、一人の公的な知識人が公の場で話す機会を失った。このことは私個人にとっても、「改革解放」から30年を経た中国にとっても悲劇だ。


思い起こせば、六・四(天安門事件)の後に私が経験した劇的な経験は、すべて法廷と関わっている。


私が公の場で話した2度の機会は、いずれも北京の人民中級法院の法廷が与えてくれた。1度目は1991年1月、2度目は今だ。それぞれで問われた罪名は異なるが、本質的には同じであり、ともに「表現の罪」を理由にしている。


20年が経過した今もなお、無実の罪で亡くなった天安門事件の犠牲者の魂は安らかな眠りについていない。


私は1991年に釈放された後、天安門事件の情熱によって政府方針とは異なる政治的意見を持つ私は、国内での発言の機会を失い、海外メディアを通してのみ言葉を発信できた。それらの言葉は、当局から何年にもわたって監視されてきた。


当局からの生活監視(1995年5月〜96年1月)、労働教養(1996年10月~99年10月)、そして今再び私を敵とみなす政府によって、私は被告席に押し込められている。


それでも私は、自由を奪った政府に対して伝えたい。20年前に「6月2日ハンスト宣言」で表明した時の信念と変わりはない――「私には敵はおらず、憎しみの気持ちもない」と。


私を監視、逮捕し、尋問した警察官、起訴した検察官、判決を下した裁判官も、誰もが私の敵ではない。監視や逮捕、起訴、判決は受けいれられないが、私を起訴した検察官の張栄革と潘雪晴も含めて、君たちの職業と人格を私は尊重する。12月3日の尋問では、私は2人から尊敬と誠意の念を感じた。


憎しみは人類の知恵と良心を腐らせ、敵対意識は民族の精神を傷つけ、生きるか死ぬかの残酷な闘争を煽り、社会の寛容性と人間性を破壊し、1つの国家が自由と民主主義へと向かう道のりを阻むものだ。私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かしたい。


「改革開放」が国の発展と社会変化をもたらしたことは周知の事実だ。私の見解では、改革開放は毛沢東時代の「階級闘争を要とする」執政方針を放棄したことから始まり、経済発展と社会の平和的調和に貢献するものだった。


「闘争哲学」の放棄も、敵対意識を徐々に弱め、憎しみの感情を取り除き、人間性に染み込んだ「狼の乳(編集部注:中国共産党による愛国主義的な教育)」を取り除く過程だった。この過程によって、互いを愛する心の回復や、あらゆる価値観や異なる利益が平和裏に共存するための柔和な人間的土壌といった、改革開放に向けたゆとりある環境が国内外で整えられた。これにより民衆の創造性が発露し、慈しみの心が修復された。


国外に向けては「反帝国主義・反修正主義」の考え方を棄て、国内においては「階級闘争」の考えを棄てた。このことは、中国の改革開放が今日に至るまで継続できた大前提だったと言えよう。市場経済となり、文化は多様性へと向かい、遅まきながら「法の支配」へと移行したのも、みな「敵対意識」が弱まったおかげだ。


中国では最も進歩が遅い政治分野でも、敵対意識の弱まりによって、社会の多元化もあり、政府の包容性は増した。政治的思想が異なる者への迫害も大幅に弱まり、1989年の民主化運動への評価も、「扇動された動乱」から「政治的動揺(政治風波)」へと変わった。


敵対意識の弱まりは、政府にも人権の普遍性を、ゆっくりではあったが受容させた。1998年に中国政府が国連の2大国際人権条約への署名を世界に約束したことは、中国が普遍的な人権基準を受けいれたことを示した。2004年には全人代が憲法を改正。初めて「国家は人権を尊重し、保障する」と明記され、人権が法治の基本的な原則の一つになったと示した。


その一方で現政権(当時の胡錦濤政権)は、「以人為本(編集部注:人間本位)」「和諧社会(編集部注:調和の取れた社会)」といった中国共産党の進歩を示す理念を唱えた。


このマクロレベルでの進歩は、逮捕されて以来、自分自身も経験として認識できた。


私は自らの無罪を主張し、私を罪に問うことは違憲だと考えている。それにもかかわらず、自由を失ったこの1年あまりの間に、私は2カ所での勾留、公判前に4人の警察官の尋問と、3人の検察官、2人の裁判官(の聴取)を経験した。


彼らには私を軽視する態度はなく、拘留期限も超過せず、自白を強制することもなかった。彼らの平静かつ合理的な態度は、常に善意を示していた。6月23日、私は当局の監視下の住まいから、北京市公安局第一看守所、通称「北看」に移された。北看での半年間で、私は拘置方法の進歩を目の当たりにした。


私は1996年に旧北看(北京市宣武区半歩橋)で時を過ごしたことがあるが、10数年前と比べて現在の北看は、施設の設備や管理面で大幅に改善されていた。


特に現在の北看の革新的で人道的な管理は、拘留者の権利と尊厳を尊重し、拘留者に対して柔和な対応をするものだ。それは「温声放送(北看内での音声放送)」や雑誌「悔悟」、食事前や睡眠時間の前後に流れる音楽にも表れ、こうした管理は勾留された人に尊厳と温かさを感じさせ、秩序を維持しようする意識を刺激する。


勾留された人に人間的な生活環境を与えるだけではなく、訴訟環境を和らげた。


私は、私の監房を管理していた劉崢刑務員と親密な間柄だった。拘留者に対する彼の尊敬と気遣いの念は、管理のあらゆる細部に現れ、彼のあらゆる言葉や行動にもにじみ出ているように感じた。誠実で、正直で、責任感があり、親切な劉刑務員と知り合ったことは、北看での幸運の一つだった。


私の政治的信条は、このような信念と経験に基づいている。すなわち、中国の政治的進歩は決して止まらないと堅く信じており、いつの日か自由な中国が生まれることへの楽観的な期待に満ちあふれている。いかなる力も自由を求める人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ。こうした進歩が、本件の審理にも体現され、法廷が公正な裁決、歴史の検証に耐えうる裁決を下すと期待している。


もし過去20年間で最も幸せな経験を語るとするならば、妻の劉霞の無私の愛を得たことだ。彼女は今日この裁判を傍聴できないが、しかしそれでも私は君に伝えたい。私の愛する人よ、君の私への愛が、いつまでも変わらないことを確信していると。


何年もの長い間、自由のない暮らしの中で、私たちの愛は外部環境によって苦難を強いられてきたが、思い返せば際限がない。私は有形の監獄で服役し、君は無形の心の獄中で待ち続ける。君の愛は太陽の光だ。牢獄の高い壁を飛び越え、鉄格子を通り抜ける。私の肌を撫でて、細胞を温め、心の平穏と純潔、明晰さを終始保たせ、獄中の全ての時間を意義あるもので満たしてくれる。


一方で、君への私の愛は痛みと苦しさでいっぱいで、時としてそのあまりの重さによろめいてしまう。私は荒野の石ころで、暴風雨に打たれるがままだ。冷たく、誰も触ろうとはしない。しかし私の愛は堅く、鋭く、いかなる障害をも貫くことができる。たとえ粉々に打ち砕かれても、私は灰となって君を抱きしめる。


愛する人よ。君の愛があるからこそ、私は来るべき審判に平然と向き合って、自分の選択を悔やまず楽観して明日を待つことができるのだ。


私は望んでいる。私の国が表現の自由がある場所となることを。全ての国民の発言が同等に扱われるようになることを。


そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、平和的に共存できる。多数意見と少数意見が平等に保障され、特に権力者と異なる政治的見解も、十分に尊重され、保護される。ここではあらゆる政治的見解が太陽の光の下で民衆に選ばれ、全ての国民が何も恐れず、政治的意見を発表し、異なる見解によって迫害を受けたりしない。


私は望んでいる。私が中国で綿々と続いてきた「文字の獄(編集部注:言論弾圧のこと)」の最後の犠牲者となることを。そして今後、言論を理由に罪に問われる人が二度と現れないことを。


表現の自由は人権の基礎であり、人間性の根源、真理の母である。言論の自由を封殺することは、人権を踏みにじり、人間らしさを閉じ込め、真理を抑圧することなのだ。


憲法によって付与された言論の自由を実践するためには、公民としての社会的責任を果たさねばならない。私がしてきたあらゆることは罪ではない。たとえ罪に問われても、恨みはない。


皆さんに感謝を。

劉暁波氏(右)と妻の劉霞さん | Handout . / Reuters


日本共産党の志位和夫委員長は14日の、ツイッター
「劉暁波氏の死去にさいし、心からの哀悼の意を表します。言論による体制批判に対しては、これを禁止することなく、言論で対応すべきです。人権問題は単なる『国内問題』ではありません。中国は、自らも賛成した一連の国際的取り決めを遵守すべきです」


議論を封殺し、対話を拒否する安倍政権によって、言論表現の自由は徐々に奪われつつある。そして破壊される議会制民主主義、取り上げられる国民主権。それらは長い間、空気のように日本社会で守られ、国民はありがたみなど感じずに生活してきた。
しかし一度失えば、容易に取り戻せるのもではない。


安倍総理は敵対を煽り、敵味方の線を引き、自分の同志、媚びる人間を優遇。反対する人間の言論封鎖のための共謀罪も全く道理に合わない方法で法制化してしまった。


『憎しみは人類の知恵と良心を腐らせ、敵対意識は民族の精神を傷つけ、生きるか死ぬかの残酷な闘争を煽り、社会の寛容性と人間性を破壊し、1つの国家が自由と民主主義へと向かう道のりを阻むものだ。私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かしたい。』


劉氏は、長い苦境にあって、こうした言葉を語れる。私たちは、氏の言葉を噛み締め、もっと真剣に、自分たちの宝を守るようにしなくてはならないのだと思う。



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